カニをゆでる

並木道に沿って開かれる週3回のマルシェ。一番賑わうのはやはり日曜日。7月、陽射しは強さを増し、並木の葉は色濃く茂る。連なる露店に落とす葉陰は買い物客に心地いい。

夫といっしょに長い通りを品定めしながら歩く。居並ぶ店の中にカニ、貝類だけを専門に扱う小さな海鮮屋がある。先週出店していなかったのは暑さのせいだったのだろう。今日は温度もさほど上がらず爽やかで過ごしやすい。あまり暑い日は陳列台の生き物たちがぐったりしてもたないらしい。

陳列台にはトゥルトー(イチョウガニ)と呼ばれるカニ。ワタリガニに似ていて甲羅はイチョウの葉形、ごついハサミを左右につけている。ムール貝、マテ貝、バイ貝、コック貝なども山積みに。

牡蠣も並んでいるが、夏には存在感が薄れ、立派な甲羅のカニたちが俄然存在をアピール。ブルターニュ産、今が旬だという。兜を思わせる迫力に押され、活きトゥルトーを試して見ることにする。

店のおじさんが「ヴィヴァン、ヴィヴァン」と言いながら客に呼びかける。ヴィヴァン、「活きがいいよ」。

「一番活きのいいのをちょうだい」と言うとカニを仰向きにさせ、白い腹を見せてあがく具合で活きのよさをはかってくれる。一番もがいているカニを指さしこちらを見る。「それに決めた」と勢いで購入。潮の香が漂う。

 

マルシェのトゥルトー、手前はオマール海老

帰宅すると、カニを冷蔵庫に納めホッと一安心。おとなしく静かだ。今夜は茹でたてのカニを白ワインと共に堪能しよう。

ところが急に出かける用事ができて外出。思ったより時間が押して夕方に。冷蔵庫の中の活きガニのことが気になり始める。タイミングよくバスに乗れたのはよかったが、夕方のラッシュにかかり道路は渋滞。セーヌ河岸のケ・ブランリー美術館横をのろのろ進む。

こうなったら家に電話をかけて夫に頼むしかない。生きたカニなど茹でたことのない彼をその気にさせ、茹で方の講釈を始める。混み合う車内で私は自然と声高になる。

「だからね‥‥」

不器用な夫、ぐらぐら煮立った鍋の湯、選び抜かれた一番活きのいいカニ‥‥。電話で説明するだけではたして茹でる作業ができるものなのか、危険な場面ばかりが想像され目眩がする。手順をしっかり伝えなければと身構え、いっそう声のボリュームは上がる。私にしても数回試したことがある程度で慣れているわけではない。

バスが渋滞から抜けると、緑の中にエッフェル塔が現われた。

「脚を糸で縛ってから処理するの。」「それが難しかったら、身を裏返して胸のところをキリのようなものでヒトツキにするの。思い切ってトドメの一発を刺すのよ。」と、私は大声で叫んでいた。

不慣れな夫は電話の向こうで物分かりが悪い。お互いそう若くはない身、耳の機能も低下気味。声が届くことを念じ、私は全身全霊を込めて叫ぶ、「だからね、怖がっちゃダメ、トドメの一発を刺すの」。

ふと気づくと、叫ぶたびに眉根を寄せて私の方に機敏に振り向くカップルがいる。東洋系の顔‥‥私の言葉に反応しているようにみえる。理解しているのだろうか。まさか、でも、もしかするとあの二人は日本人‥‥と脳裏をかすめながらも、鍋の前にいる夫への指令をここで放り出すわけにはいかない。「キリ状のものは引き出しにあるはずよ」と続ける。

次の停車場エコール・ミリテールでバスが止まると、カップルは緊張した面持ちで私の方に鋭い視線を投げ降りて行った。

窓外にナポレオンの眠るアンヴァリッド、金色ドームが陽光を浴びてキラリと光る。

電話の向こうで夫が叫ぶ。「分からないから、そのまま放り込んじゃったよ」。

降車して行くカップルの背中を目で追いながら、私は「待って」と呼び止めたかった。誤解を解きたい。バスに揺られながら自分が発していた言葉を反芻。物騒を超えて犯罪の匂いがする。

常設の魚屋、生け簀のトゥルトー

家に戻ると、なべの周りは水浸し、カニは茹で上がったらしく火は止められていた。夫は汗だくでコンロの傍に立ち尽くし、蒼ざめていた。「熱湯に放り込んで蓋をしたら、カチッ、カチッと音がした。もがいて脚を動かし蓋にあたったんだと思う‥‥」魂を抜かれた様子でそう言った。

私はおそるおそる鍋の蓋をあけ中をのぞく。お湯の中に赤褐色のトゥルトーが脚を広げて浮かび、片方のハサミがとれていた。縛られもせず、トドメも刺されなかったカニは蓋を押しあけようと大きなハサミで奮闘したのだろうか。

夏時間のパリ、今は午後10時近くまで明るい。カニも程よく冷めた頃、私たちは黙ったまま、片方のハサミ、脚を身からもいだ。腹側のハカマをはずし甲羅を開け、すべてを大皿に盛る。甲羅にはたっぷりなミソ、体には白い身が詰まっている。

活き活きしていたカニが静かな姿で食卓の一皿になっている。カニと過ごした一日を思う。厳かな気持ちで白ワインのグラスを傾け、濃厚なミソをほぐした白い身に添えていただく。懐かしい海の香りがした。