シャンゼリゼの大通りを折れ、グラン・パレとプティ・パレの間をセーヌに向かうと、アレクサンドル三世橋からアンヴァリッド、ナポレオン・ボナパルトの眠るドームが視界に飛び込む。
直線上に奥行きのある景観。個人的には、モンマルトルのサクレクール寺院と並んで悪趣味なこけおどしに映る。出来ればあまり目にしたくないと思いながら、実際に目にするやしげしげ見つめてしまう。無視できない威力、磁力を放っている。それは素直に認める。
かつてパリの街を歩こうと開いたガイドブックで、アンヴァリッドに「癈兵院」の文字があてられていて、その文字の持つおどろおどろしさに打たれた。ヤマイダレの、このなんとも薄気味の悪い文字。どうしたって普通じゃない、不吉の具象化だ。
もしかしたら、そのとき受けた印象がずっと尾を引いているのかもしれない。
ちなみに、手許の辞書で「はいへい」を引くと「戦争で負傷して身体障害者となり、再び戦闘に従事できなくなった兵。傷兵」とある。
昭和30年代の日本で、癈兵は傷痍軍人と呼ばれていた。
赤紙一枚で兵役にとられ戦地に駆り出され、傷ついた兵士たち。正確にはもう軍隊はなかったわけだから、戦闘などで障害者となり社会復帰出来なくなった元兵士たち。彼らの姿を戦後10年以上経た東京でも数多く見かけた。
とりわけ上野から浅草の繁華街、その背景にショーイグンジンの存在は焼き付けられている。西郷隆盛の銅像、動物園、不忍池、仲見世から浅草寺、六区、奥山‥‥いたるところに彼らの姿があった。
白一色の寝間着のような着物にゲートル、戦闘帽をかぶり、木の義足をつけた者はアコーデオンを弾き、片手をもぎ取られた者はハーモニカを吹き、目の見えぬ者は濃い色眼鏡であらぬ方を向き、耳から首にかけて焼けただれた者はうつむき、両脚のない者は四つん這いに手をついて土下座の形を崩さなかった。
若い時代に傷を負った彼らは30代となり40代となって、傷痕をことさら見せつけるように、軍歌を奏でながら物乞いをしていた。10年以上にわたる歳月、こうして日々を送っていたのだろうか。
祖母は必ず彼らの前に置かれた缶にお金を入れた。板垣退助の絵柄の赤っぽい百円札だった。
本当に傷痍軍人なのかな。
こういう父に、祖母はめずらしく真剣な顔をした。‥‥大陸や南洋で命を亡くしたひと、いまだに行方不明のひと、腕をなくし脚をなくしたひとをわたしは幾人も知っている。知っている以上、現に傷ついているひとに、ささやかな気持ちを示す。そうしなくてはいられない。本物か偽物かなんてどうでもいい。あの年代で傷つき、傷痍軍人を名乗る以上‥‥。
いつになく雄弁な祖母に驚きながら、小学生にはショーイグンジンはひたすら怖いものだった。
四谷怪談や一つ目小僧とは別の怖さ。あの怖さの正体は何だったのか。
ショーイグンジンは夢に現われ、うなされた。せっかく楽しみにしていた動物園めぐりも不忍池の夕涼みも浅草詣でも、天麩羅も洋食も彼らの存在はそのたび暗い影を落とすものだった。
怖がるんじゃない。‥‥いくら祖母にそう言われても、わざと怖がらせようとしているのは彼らの方じゃないかと感じていた。
17世紀ルイ十四世は、傷痍軍人すなわち癈兵を看護するためアンヴァリッドを創建した。以降、あまたの革命や争乱のうちに国家システムは千々に乱れ、さまざまな政体が国家権力を握っては瓦解していった。
しかし政体がいかに代わりその中身を変えても、国家の名の許に戦い、ダメージを負った傷痍軍人はこの地で手厚い看護を受け、それは現在に及んでいる。癈兵に対する感謝と敬意は受け継がれ、メトロやバスで真っ先に席を譲られるのは老人でも妊婦でもなく彼らだという話を聞いた。
いくさで傷つく兵士は不幸だ。いくさは不幸だ。癈兵院を必要としなくてはならない国は不幸だ。
どう見ても装飾過多としか思えないアレクサンドル三世橋から、黄金の揺らめく光沢を立ち昇らせる癈兵院のドームを眺める。
しかし、‥‥それなら。
いくさで傷を負った兵士たちが幽鬼さながら、傷ついた身体を見世物にして物乞いをする。通行人の眉をひそめさせ、子どもたちの恐怖心をあおる不具者として。二度と社会に復帰できぬ者として。
こういう国は何だと言うのだろう。
青空のもと、橋の上では結婚記念の写真撮影をしているカップルがふた組。悪趣味なこけおどしに映る大仰なドームは、傷ついた兵士たちに示されるせめてもの敬意、ささやかながら感謝の意思なのだろうか。
アンヴァリッドの一部は、軍事博物館として一般公開されている。われわれの歴史、繰り返されてきた愚行を直視するために覗いてみるのもいい。昭和30年代に見かけたショーイグンジンを忘れぬためにも。
忘れぬこと、それがわれわれの最低限の務めであると胸に刻んで。