
――読書漂流「レ・ミゼラブル」その2
作品と作家の関係は、時に不思議な印象を与える。
作家が着想し筆を進め、それが作品として結晶していく。まず作家がいるところから始まり、作品はこの書き手によってはじめて現れ、日の目を見る、作家あってこそ作品はもたらされる。
それはそうだろう。作家なくして作品はない、疑う余地のないところではある。しかし、だから主導と従属と割り切ってしまっていいのだろうか。それほど一方的で単純な構図とばかりは言えない、ひと筋縄ではいかない場合も多いのではないか。
‥‥作品に描き出されていく世界、組み込まれていく物語が、逆に作家を捉えて鼻面引きまわし、挙げ句に作品としての完成を強いる。そういう場面だって充分想定できる。本当に読み応えのある作品は、むしろこうして生まれてくるのではないか。
まして「レ・ミゼラブル」のような大河小説で、かつ執筆に中断期間があり、その間に書き手の意識、歴史観、社会観が大きく変化したとあれば、書かれつつある作品の側から作家に取り憑き、変更と更新を迫ることがあっても当然という気がする。
登場人物に注目してみると、それは一層明らかだ。彼らは作家の握るペンの先、インクのひとしずくから生まれ落ち、作品のうちで役割を与えられながら成長していくに従い、次第次第に作品を引きずりまわす力を帯びて作家をあたふたさせることになる‥‥。
たとえば、エポニーヌ、ガヴローシュ、脇役のうちでも最も魅力的な彼らのような人物像は、当初の構想より膨らみ、存在感を増した登場人物たちの筆頭と言っていい。物語の展開にしたがって、ユゴー自身の彼らにそそぐ愛情も確実に深まっていったことが伝わってくる‥‥。
ガヴローシュ
ガヴローシュはテナルディエ夫妻に捨てられた子。テナルディエのおかみさんは女の子には愛情を示す一方で、男の子にはまったく愛情を持つことのできない性癖とあって、もともと家に居場所はなく街をさまよう‥‥。
家ではなく街。彼を理解するキイワードはここにある。血統上の親が誰であれどうであれ、彼はパリの街に育てられた「パリの申し子」であり、それ以外の者ではない。
人間のあらゆる犯罪は子供の放浪生活からはじまる‥‥〔略〕‥‥とはいえ、パリだけは除外しよう。‥‥〔略〕‥‥パリの浮浪児は表向きにはいくら粗野でどんな悪評をうけようとも、内面はほぼ無垢なのだと強調しておこう。思ってもすばらしいもの、数々の民衆革命のみごとな誠実さのうちに輝くもの、それはある種の非腐敗性である。
ユゴーはパリの浮浪児たちについて熱弁をふるう、民衆の誠実さを体現する者があるとすれば、それはまず彼ら浮浪児たちである、と。この浮浪児が作品中に身体をもって登場したのがガヴローシュということになる。
ここで真っ先に思い浮かぶのは、かのドラクロワ「民衆を導く自由の女神」、女神のすぐ脇で拳銃を撃つ少年だ。これは1830年の七月革命を舞台にした絵画だから、「レ・ミゼラブル」の1832年と時期的にもほとんど重なり合う作品世界と言っていい。
学生や労働者がバリケードを作ると、パリの申し子はいつの間にかそこに入り込んでいる。あたかもバリケードの中こそ彼本来の棲み家であるというように。ごく自然に周囲の年長者を鼓舞し、緊張をやわらげ、活き活きと闘い、そして斃れる。
パリの歴史は、絶えることなく現われる彼の後継者たちによって、さらに未来に引き継がれていくことになるだろう。
エポニーヌ
テナルディエのおかみさんに愛された女の子、したがってガヴローシュの姉にあたるが、ガヴローシュの方はその事実にすら気づいていない。
子ども時代は母親の寵愛を受けてそれなりの生活を送り、非力なコゼットをこき使いいじめる側に位置した。しかし惨めに落ちぶれた小悪党一家がパリに流れつき、父親の使い走りをして日々を送るうち、みすぼらしい哀れさがすっかり身についてしまった。マリユス青年に惹かれながら、あらゆる面でコゼットと対になるよう宿命づけられている。
コゼットはジャン・ヴァルジャンの庇護の許、清純無垢で美しい娘に育っていく。‥‥と、それはいい。ただ書き手の事情を考えると、傷ひとつないヒロインの容姿や性格の描写はいずれ手詰まりに陥る。短所のないものは描きにくい。どうしたってリアリティに欠けてくる。
この時代とあれば、上品な子女が野良猫のようにさまようわけにもいかないから、エピソードの積み重ねも難しい。読み手としても退屈を免れない。白雪姫の美しさもシンデレラのけなげさも、そこで行き止まりになってしまう。恐ろしい継母や意地悪な姉妹でも登場してこない限り、動きがつかなくなる。
コゼットだけじゃ駄目、その陰画としてのエポニーヌは物語の展開構成上、必要不可欠なキャラクターなのだ。
コゼットを輝かせるために産み落とされ、作品に登場することとなった少女。ヒロインと交叉する運命を持ち、育ちが悪く貧しく、おどおど顔色をうかがうと思えば妙に図々しく蓮っ葉なところがある。
コゼットと結ばれることになる青年マリユスとしては、同情することはあっても決して魅力を覚える対象ではない。劣悪な環境と貧乏が骨の髄まで沁みついた不幸は、その対極の位置にある少女をこうごうしさにくるませ、読者に印象づけられるように出来ている。
したがって‥‥ここが微妙なところだけれど、動きに乏しい肖像画のようなコゼットに比べ、生き生きと劇的に描かれるのはエポニーヌの方だ。書き込めば書き込むほど生命の息を吹き込まれ、作家として愛着を抱き始めることにもなるだろう。
男装してバリケードの中に入ったエポニーヌは、身をもってマリユスを銃弾から守り、命を救い、いとしい男に抱えられるようにして息絶える。
あたしが死んだら、この額にキスしてくれるって約束して。――あたし、きっと分かるよ。‥‥〔略〕‥‥それから、ねえ、マリユスさん。あたし、ちょっぴり、あなたのこと愛してたみたい。
エポニーヌの役回りに送った、ユゴーのとっておきの台詞。‥‥それほど余韻をひく。
ちなみに、バリケードの中で闘うマリユスの姿をエポニーヌはしっかり目にすることが出来た。コゼットにそれは出来ない。瀕死のままジャン・ヴァルジャンに助けられ何ヵ月もベッドにいたマリユスさえ、思い出すことのできない姿を彼女だけは記憶の襞に仕舞い込むことが出来た。
■ユゴー「レ・ミゼラブル」 西永良成・訳(ちくま文庫)