秋から冬にかけての会社帰り。特に予定のない日には、無性に外を歩きたくなった。
ひと駅分でもふた駅分でも通勤電車を避けたい、との思いはもちろんある。オフィスや会議室を行ったり来たりするだけで運動不足というせいもある。なにより純然と外気に当たり、ひとり街を歩きたかった。
音羽、護国寺にある会社から目白台を目白駅方向へ。風の吹き抜ける大気の澄んだ宵、コートの襟を立てマフラーに首を埋め、高台の縁から目にする新宿の高層ビル群は、都会の持つリリシズムのようなものを発散していた。ジョージ・ガーシュインのラプソディ・イン・ブルーが勝手に頭の中で鳴り始める。
標準コースはこのまま目白通りを駅まで。もう少し歩こう、その気になれば高田馬場駅を目指すことになる。神田川方向へ急な坂、この場面急転回の感覚がいい。下りきると、町工場と木造アパートや家屋のひしめく道筋で、そこに暮らす人びとの息吹きをすぐ近くに感じる。
圓朝の「怪談乳房榎」ゆかりの南蔵院から明治通りに向かう道の左手に、小さな洋食屋が淡い光を投げている。白く塗られたマッチ箱のような二階建て、一階の店に赤いシェード。硝子扉脇のショウケースにエビフライとオムレツ、ハヤシライスの模型、献立表が立てかけられていた。
五歩も歩けば通り過ぎてしまう店の中央に、ヨットのキャビンを思わせる丸い小窓が開いていて、そこから店内を覗ける。玄関ホールの向こう側には調理場とカウンター、そして小窓に接してテーブル席。十名も入れば満員になってしまいそうな店。
通りかかるのが夕食どきにあたるせいか、テーブル席はいつも埋まっていた。寛ろいでお喋りし、互いにビールを注ぎ合うのは顔見知りの馴染み客同士といった趣。大皿に盛り合わせた料理を運ぶ小柄な女性は、無造作に髪を束ね、生き生き潑剌、客たちと言葉をかわしている。
ほんの一瞬小窓に投げる視線がとらえた光景、しょせんその積み重なりだから間違いもあれば誤解もあろう。しかし、この店についてその在りようの基本線みたいなものは押さえていたと思う。
‥‥亭主が調理し女房がサーヴィス、夫婦ふたりで切り盛りし、そこには夜ごと御町内の常連たちが集まってくる。独り暮らしの年配男性を中心にして。‥‥彼らには貴重な団欒のひとときであったかもしれない。
座の中心にいるのは女房、体型といい仕草といいさかんに餌をついばむ小鳥を思わせる。短い腕で軽々とビールのジョッキと料理を運び、狭い店内を跳ぶように舞うように。五十歳前後、エプロン姿に気取りはないが愛嬌がある。
‥‥一度入ってみようか。入ったら是非クリームコロッケを試してみたい、さくさくしたコロモを齧るととろり溶け出てくるクリームにカニの香ばしさ‥‥。これがなかなかお目にかかれない。きっちりした洋食は、意外にこういう店で味わえるのではないか。
そんなことを漠然と考えながら、同時にこの店に入ることはまずないだろうな、とも感じていた。よそ者感覚で立ち往生、気の弱い一見の客はろくろく味わいもせず、ビールで料理を流し込むのがオチだろう‥‥。
テレヴィのニューズ画面を見ていて、あれ、と思う。この光景どこかで目にしたと記憶をまさぐる。あの洋食屋だと思いあたるのに時間のかかったのは、画面に映し出された昼の光景が日没後のものとなかなか一致しなかったからだ。
‥‥鬱病で引き籠り状態にある娘の病状が一向に好転しない。前途を悲観した食堂経営の父親が無理心中をはかり、娘を殺害したのち行方をくらましている。自分のことは自分で始末するので許して欲しい、あとはよろしく。およそ、そのような書き置きを残して。
身を寄せ合うように暮らす二階で、とっくに成人しながら病んだままの娘の行く末を案じ、それでも気持ちを入れ替えようと階下の店に降りていく。誠実な料理人は、また不器用でもあった。‥‥どうしよう、どうすればいい、行き場のない問い掛けは澱のように彼の意識を濁らせ、重く結晶していく。
光を落とした店では、硝子扉と小窓に黒いカーテンが引かれていた。二階に目を遣ると、一箇所だけ電球の明かりが洩れ出ている。テレヴィの画面で見たのは本当にここだった‥‥。立ち止まることなく、歩みをゆるめることさえなく通り越しながら確認する。
二、三日後、洋食屋主人の遺体は樹海の入り口で発見された。社会面片隅の小さな記事で知る。
久しぶりに高田馬場駅まで歩く余裕のできた日。南蔵院の十字路から明治通りに向かって歩いていくと、目は自然に左の方へと吸い寄せられる。かつて淡い光を投げていた洋食屋は暗い家並みに溶け込み、二度と牡蠣フライを肴にビールを飲む客を迎えることはない。
と、街灯に人影が浮かぶ。‥‥道路反対側、右手の端。シェードから硝子扉まで、開いていた当時と変わらぬ店と二階の住居部分を見上げている人影は、枝に止まって動かぬ小鳥を思わせる。黒い影を大気に滲ませる夜の鳥。じっと二階建ての建物を見入っている。
靴音が聞こえたのだろう、黒色の小鳥はこちらを振り向く。そこには、すっかり老いた顔が浮かんでいた。
次に通りかかったとき、猫の額ほどの更地が柵に囲まれているだけだった。