隠居のススメ

漢字「老」には歳を重ねることの両義性が表わされている。老練、老賢人の「老」と、老醜、老残の「老」と。その境目でうろうろしているのがわれわれの現実だろうか。

昨今分野を問わず「老害」という言葉をよく耳にする。

瞬発的な状況把握力は衰え反射的行動力は鈍っているから、目の前で起きている事態を飲みこめず、咄嗟の対応を取れない。慌てれば慌てるほど柔軟性を失い、経験にしがみつき、そのあまり致命的なミスを招く。自信喪失に陥り愕然としながらプライドだけは譲れない、あくまで非を認めぬ頑迷さで自己保身に走る。

イヤなジジイ、救いのないババアとは、およそこんなパターンではあるまいか。要するに加齢と共に失われていく能力についての自覚がない、あるいは自覚を拒否しているように映る。

長いあいだ人間をやっていればいい加減くたびれもするし、衰えもする。加齢と共に失われていく能力は明らかに存在する。冷厳なる現実だ。これを仮に現役力と名付けるとすれば、さしあたり感覚機能、体力、筋力、瞬発力、咄嗟の判断力‥‥などはその筆頭だろう。

逆に、経験と共に身にそなわってくる能力もあることを漢字「老」は示していた。しかし老害当事者はこの能力についても自覚がない、あるいは自信を持てぬまま突っ走っておられるように映る。

視野の広さ、統合し総合する思考力、他者への想像力、共感力、問題意識の深さなどがそれで、これは現役力を通してはじめて身についてくるものだから、現役力の旺盛なうちはまだまだ発展途上ということになる。

一般的に年の功、経験知と呼ばれているが、それをここでは現役力に対して隠居力と呼んでおく。現役力から隠居力へ、自然な生き方の流れ、見取り図のようなものが立ち上がってくるように。

現役力に頼る生活から隠居力を生かす暮らしへ。‥‥そう、これこそが自然な生き方の流れだ。そしてこの切り替えを図り移行を促すために、ひとは「隠居」する。隠居する、人生の大切なポイントだ。

現役を去る、引退、卒業、退職、自らの経歴を一度切断する。選手からコーチ、監督へと転じていくスポーツの世界を考えれば、比較的分かりやすいと思うが、古今東西どの文化、社会にも組み込まれている、生き方のシフトと言っていいだろう。

現役力を失った以上現役からまずは離れる、まずは離れて自由な立場に身をおく。自由な立場に身をおけば現役にとらわれぬ視野を得、大所高所からものを見て思考できる。隠居力の本領発揮はここに始まる。

‥‥参考になる方がたは多い。子どもたちに読み聞かせをしているうちにすっかり人気者になって、地域の子ども読書会などで引っ張りだこになっているご婦人もいれば、趣味の釣りを活かした魚料理の料理教室を始めた紳士もいる。

ともすれば散逸していく日々の思いをとどめようと短歌作りにいそしむうち歌人として認められ、活躍しているマダムもいれば、本格的に油絵に取り組みサロンに応募するまでになったというムッシュもいる。

ずっと気になっていた相対性理論の勉強を始め、講師を招いて学習会を開いている元同僚もいれば、好きだった漫画やコミック、アニメについてまとめているうちに原稿が雑誌に採り上げられるようになった友人もいる。

共通項をあげれば現役時代に対してさっぱりとして、潔いところか。妙な自慢話やとんちんかんな手柄話はしない、自分を客観化できているから安心して聞いていられる、視点の鮮やかさに腹を抱えて笑い出すことも多い。

‥‥さて、とここでさらに話の大風呂敷を広げるようで恐縮だが、およそ思いつく限り他の動物を見渡して考えるに、この隠居云々を問題にするのは生物界広しといえど人間だけではないだろうか。

現役としてのチカラの失せたときには寿命も尽きる、これが一般的な動物の在りようではないのか。

爪をなくしたライオン、息切れのひどいカモシカ、鼻の利かなくなったオオカミ、ヒレを動かすのを大儀に感じるマグロ、飛行中にめまいを覚えるペリカン、消化力の衰えたワニ‥‥いずれも明日という日はなさそうだ。

ひきかえ自前の歯をすべて失おうと耳が遠くなろうと階段を数段のぼるだけでぜいぜいしようと、ただちに命にかかわるわけではない。

直立歩行をして大脳、とりわけ前頭葉が異様に膨れあがった人間だけが、現役力の果てた後でも当たり前に生き延びている。これはどういうことだろう。

動物として特異な前頭葉を持つに至ったヒトは不完全な生き物、ある意味ではずっと未熟児のままだ。本能とか遺伝とかに応じて成熟し完成しきることはない。後天的に与えられた環境を受けとめ、経験的に学んで得たものを自己の内部に知識・知恵として蓄積していく。

とすれば、隠居力は人間らしさそのもの、伝えるべき人間らしさのための寿命と受けとめていいのではないか。隠居以降の日々は伝え教育する役割を担っている、と。未熟なる者のさらなる可能性をめざして。

だからと言って難しく考える必要はない。うまそうにタバコをふかしながら頭を撫でてくれた爺さんがいた、品のいい笑顔で昔観た映画の話をしていた婆さんがいた、次の世代にこう記憶を刻ませるだけで充分に役割を果たしている。それが教育、隠居力の伝承なのだと思う。

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