
教会、街角、祠‥‥そこここのマリア像を眺めているうちに気がついた。さまざまあっても、イエスを手にした聖母子像と単独の姿をうつしたもの、マリア像には大きくふたつの系列があるのではないか。
目にした限りでは聖母子像の方が圧倒的に多い、歴史的伝統的にはこちらが主流で、それに対して単独のマリア像は歴史的に新しい、もしかしたら近代以降に増えてきた造形なのかもしれないと。
門外漢の印象だけではある。‥‥しかしマリア信仰の拡大とローマ教皇の対応、その変遷をあわせ見ると、まんざら的外れとばかりは言えないのではないかとも思えてくる。
マリアを思う、ひとびとの想いの強さがマリアを促し、出現せしめた。存在する意味を深め、変化せしめた。マリアとは、なによりマリアを思う想いの結晶だ。
神の子イエスの母として現われたマリアは、次第にマリアそのものとして現れるようになる。マリアそのひとに強い主張があったからではなく、あらかじめ約束されていた存在だったからでもない。なによりマリアを思う想いあってこそだ。
それでは、マリアを思うひとびとの想いとは何なのか。‥‥あらためてこう問うのは、あまりに大きな問い掛けではある。それでも敢えて想いの核心を覗き込もうとすれば見えてくるものはある。
包み込まれること、許されること、認められること。
いかなる経緯でマリアへ想いを馳せるにせよ、ひとはまず温もりを欲する。包み込まれ、許され、認められること。これがひとの拠り所になる。ひとはなにより肯定されることを求める。
マリアとは肯定されたいとの願いに応える者だ。
したがってマリアは、子である者たちの母として現れる。子にとっての母の像として立ち現れる。受け容れ、愛し、育み、無限に肯定する者として。
おまえはそれでいい、許されている、愛されている‥‥だからこそ子たちは安心して身を委ねる。私が私であることをひとまず、まるごと受け止めてくれる者に。どんなときにも身を寄せられる慈愛に満ちた者に。
産み落とされ現世に生きるとは苦しいことでもある。悩みもあれば痛みもある、傷つくこともあれば間違いも犯すことだってある。それを無条件に受け容れ、慰め包みこみながら共にいてくれる。祈ってくれる。
ここに在る、ありのまま。それがいかに醜く、罪深く、けがらわしいものであっても、マリアを想う、その一点で包み込んでくれる。ありのままを肯定してくれる。
そうして、その安心とやすらぎは現世にとどまらない。重い病が命の灯を消し去ろうとしているとき、傷ついた身体から血の熱さが流れ出ていくとき、老いさらばえた肉体がいまや朽ち果てようとするとき、マリアを想う、その一点で寄り添ってくれる。
死によってこの世から去る、その恐怖、冷たい孤独な出立にあたって、そばにいてくれる。共にいて祈り、冥界に導いてくれる。

幼な子を抱きとめる母であったマリアは、ここではひとり祈る姿で立ち現われる。マリアのいることで死さえも恐怖ではない。死後の冥界にあってさえ。
これが救世主イエスとなればそうはいかない、そのいかめしさにひれ伏すことはあっても安らぎからは遠い。‥‥なにしろ最後の審判、厳粛な裁きが待っているのだ。天国に行けるか地獄に堕ちるか、すべては審判者たる彼の裁量にかかっている。
それに引きかえマリアは、いかに罪深かろうが恥多い身であろうが受け容れ、包み込んでくれ、共にいてくれる。彼女の存在を信ずる者はすべて、もしかしたら信じぬ者さえ含めて。
この包容力、慈愛はイエスの理屈っぽい審判より、はるかに心をとらえる。カトリックはマリア信仰を中心に据えることで危機を乗り越え、現代に生き延びてきたのだとさえ言っていいだろう。
これはなにもカトリックの専売特許ではない。それぞれの宗教にそれぞれの形でマリアはいる。ありのまま、ここに在るそのままを肯定されたいとする願いのある限り。