煎餅ひとつで

3年ぶりにやってきた知人と再会した折、手土産に老舗の煎餅を頂いた。

手土産を交換し合う「贈答文化」の輪の外で歳月を重ねてきただけに戸惑いを覚えながら、それでもかつての好物と久々に対面する喜びに思わず顔はほころんだ。

がっしり歯応えのある硬焼きをばりばりやると醤油の風味が鼻に抜ける。歯応えを楽しみ、しっかり噛み砕きながら口中を転がす。充分味わってから飲み込まないと、尖がった破片が胃の内壁に突き刺さるのではないかというほどの代物だった。

素朴にして強靭。天日干しされて大気を呼吸し、乾ききったところを炭火で焼かれる。素早くタレを塗られ手早く引っ繰り返され‥‥目の前に現れるまでのシーンを感じ取れる、それも味わいのうちだった。

推理小説と渋いお茶とこの煎餅があれば、贅沢なひとときは保証されていた。そんなことを思い出しながら、帰宅後早速箱を開けたところ、まずはその上げ底ぶりに驚いた。

箱の外観から想像する深さの半分ほどの空間に、ひとつひとつプラスチック製の袋にくるまれたものが上品に並べられている。

ご丁寧に小さな防湿剤まで一緒に詰め込まれ、酸化防止のためとか窒素でぱんぱんに膨らんだなか、かつての半分、いや三分の一程度のかけらでしかない煎餅本体が、無重力状態の宇宙船内ででもあるかのように封じ込められている。

あの頑固なまでの歯応えはどこへやら、コシなくもろく砕け、香りは妙に装飾的でねばつく。

あらためてプラスチック製の袋を手にすると、大和絵風の風景が印刷されていて百人一首だか万葉集だか知らないけれど短歌が一首、そして四季の移ろいを大切にする日本文化を守る云々と細かい文字で御託が述べられている。

代替わりしたな、と感じた。煎餅を焼く、そこに込める思いが変わったな、と分かった。

守るべき文化があるとしたら煎餅作りだろう、先代までが作り上げてきた煎餅の味だろう、その味を好んだ者たちとの信頼関係だろう。

大上段かつ薄っぺらに日本文化云々というのは、当世の流行らしい。

煎餅ひとつで目くじらたてる気はない。それでも煎餅ひとつで見えてくるものはある。