とりわけ、戸川昌子へ

愛川欽也、野坂昭如、戸川昌子、永六輔、大橋巨泉‥‥耳許を流れるラジオの声から生まれた親しみは、また格別のものらしい。このところつづいた訃報に接するたび、聴覚を通じて入り込んできた人びとについて考えさせられる。

声のトーン、笑い声、息遣い、目をつぶり耳を澄ますことで甦ってくる記憶の断片。想いを凝らすと過去の生活の場面が浮かびあがり、そこを横切る自分の影の思いがけぬ生々しさにどきりとする。

フランスのラジオはクラシックはクラシック、ジャズはジャズで専門の局になっているから、その日の気分で局を選択したら放りっぱなし、もっぱらバックグラウンド・ミュージックに流している。そんなある日、深夜のひととき期せずして流れてきたエディット・ピアフの唄声に、戸川昌子晩年の舞台が呼び覚まされたかのようだった‥‥。

寝つきの悪い早熟な少年は、ラジオのイヤホーンを耳に突っ込んで寝床に入るのを習慣にしていた。60年代後半にはスタジオ生放送による深夜放送が本格的にスタートし、東京放送「パック・イン・ミュージック」では日替わりでホスト、ホステスがお喋りしては番組を進行する、そのうちのひとりが彼女だった。

シャンソンを唄うミステリー作家が耳許で語る耽美と幻想の物語、背徳と悪女の世界は高校生になった少年の脳内に妖しく共鳴し、いやでも神経は冴えわたっていく。

熱を込めて語られる江戸川乱歩の世界に、それならと手を伸ばし、いつしか中毒と呼んでさしつかえない状態に陥った。子どもの頃親しんだ少年探偵団や怪人二十面相とは別のところに、乱歩の本領があることを知った。悪夢を恐れながら、悪夢に惹かれる。ますます夜眠れない、昼間はぼうっとしている少年になった‥‥。

なんともカッコよく感じたのは、性懲りもなく生放送のスタジオに遅れてくることだった。放送にかかわる者として、これは大変なことだろうと、世間知らずの少年でも理解できた。ディレクターはじめ担当者が打ち合わせもなく、あたふたと時間を埋めているところに現われる。ふらり現われ勝手に喋る。スタジオ内が生き返り、少年は耳を凝らす。

駆けつけてきた放送局玄関の階段で躓いてひっくり返り、ハンドバッグの中身をぶちまけるわ、守衛さんはとんで来るわで大騒ぎになったと言っていたこともある。悪びれもせず懲りもせず、可笑しそうに喋るのが小気味よかった。生放送の面白さはここにあった。聴取者のすぐ向こう、地続きにマイクに向けて喋る存在が実感できた。

もっとも彼女は番組からすぐに消えた。メイン・ホステスのこの体たらくは許されなかっただろう。深夜ラジオを牽引する聴取者が「夜眠れない派」から「夜も眠らない派」の受験生に移り、夜の世界の手ほどきを受けるより、同年代の問題意識を語り合うことを望んでいたという流れもあった。野沢那智や愛川欽也の時代に移ったのだ。

青山通りを外苑から渋谷に向かい、青学を通り越して仁丹ビルに出る手前で左に折れる。当時はまだ薬局とか魚屋、八百屋なんかの混在する商業地のようなビジネス街のような住宅地でもあるような、山の手のどこにでも見掛ける町並みだった。そこに歌手としての彼女の拠点、シャンソニエ「青い部屋」があった。

後年乗っ取り事件のあった、大通り沿いのビル地下に移転する前のこと、ドアを開けると硝子ケースに四谷シモンの人形が目を惹く、こぢんまりとした店だった。夜はシャンソンを聞きながら大人たちが談笑し酒精と紫煙の混ざる場も、昼は拍子抜けするほど普通の喫茶店で、戸川昌子が店に出ていることはなかった。

もっとも喫茶店に入る、それ自体が高校生にとっては冒険で、いくら制服のない自由な校風とは言え、厳密には校則で禁じられていたように思う。そんな学校帰りにあの戸川昌子の「青い部屋」で珈琲を飲む、だれでもほんの少し背伸びをしてみたいと感じる年頃だった。

うちのお店に昼間、かわいい高校生の坊やたちが出入りしているらしいの。ある晩、彼女が放送のお喋りでこう言ったとき、人知れず赤面した。それが羞恥だったのか、屈辱だったのか、憤慨だったのか、はたまた快感だったのか、喜悦だったのか、今でも分からない。

彼女の最晩年。

幾度か彼女の歌うシャンソンを聞く機会があった。

聞いた、と書きながら少し違う。彼女のシャンソンは独り芝居の域に達していたから、観た、という方がふさわしい。そんな気もする。

老いた娼婦が街角で客を引く。かつては、ちょいと微笑むだけで男たちが群がってきた。少し甘い声を聞かせるだけでみんな有頂天になって。それが今はどうだろう。酔っ払いをたらしこむか、他では相手にされない金欠男のお寒いフトコロをアテにするしかない。

そんな唄を演ずると絶品だった。

舞台の裾で唄とも台詞ともつかないささやき、溜め息、つぶやき‥‥、そして客席に向かって、ちょいとあんた、舞台がはねたら楽屋口で待ってて‥‥。

笑いと哀しみ。快楽と苦悩。俗悪と崇高。‥‥それらは対極に位置するようでありながら実は隣り合わせで、いや、もしかしたら重なり合っているのかもしれない。

ピアフの歌う娼婦と、戸川昌子の演ずる娼婦と。

現実は夢を紡ぎ、夢は現実を紡いでいく。

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