パリ、まちかどの物語

メトロの駅通路、階段下のわずかなスペースに小さな台を出して果物を売っていた。正式な露店ではないから、当局のお目こぼしで細々とやっていたのだろうか。小柄ながら弾丸ボールのようなパワーを感じさせる青年は、機敏に立ち働いていた。

オリジンは分からない。ときおり利用するインド料理店の人たちと体格、骨格など似ている気はする。浅黒い顔でにこり微笑むと、歯の白さが目立つ人なつこい表情、まずはそんなところ。

マルシェやスーパーの売れ残りを仕入れてきているのか。熟しきって腐りかけているものもある。しかしなんと言っても安価で、手軽だ。帰り際に、最寄り駅でついついという気にもなる。

どこの駅でも同じような「果物屋」を見掛けるから、移民や難民を助けるアソシエーションかなにかが運営しているのかもしれない。詳しい事情は知らない。

働きたくとも職のない者に場を与え、そのまま廃棄されてしまいかねない果物をもう一度流通経路に乗せる、少なくとも二つの点では意味がある。‥‥と眺めつつ、売り子が青年に替わるまでは素通りするだけだった。

笑顔に引かれて帰りがけ一度バナナを買った。東アジア系の客は少ないのか、その一回で記憶に残ったものらしく、以来メトロの駅を出入りするたび「ボンジュール」と声を掛けてくるようになった。にこり白い歯を見せながら。

くしゃくしゃとした顔立ちは美男子の対極にあると言って差し支えないけれど、撥剌として陽気、なんと言っても華がある。青年の出現で利用客の増えたのは明らかだった。

これほど零細な商いはない、そしてこれほど売り手の個人的な魅力が試される商いもない。じめじめしたメトロの構内で陰気な顔してどんよりされていたら、無視して通り過ぎるだけだ。

それがその日のうちか翌朝口にするもの、いちごや桃なら御免こうむるけれど、バナナのようにしっかり皮に保護されたものならここで買うのもいいか、という気になってくる。

挨拶を交わすだけで気持ちがいい。「ボンジュール」「ボンソワール」気持ちはいいけれど挨拶だけというのもためらわれて、明日の朝食はバナナ主体で行こうかと覚悟を決める日もある。買わずに顔を合わせるのが辛くなって、ひとつ先の駅まで歩くなんてことまであった。

ある日、街角のイタリアレストラン、開店前の店先テラス席で青年が神妙にかしこまっているのを見掛けた。メトロの駅の売り子はひょろ長い無表情なのに代わっていた。

枯れ葉の季節、並木の落葉が風に舞い街路に積もる。道ゆく人びとが踏みしめ、つむじ風に運ばれる落葉をせっせと掃いている人影がある。パリの街角では珍しい光景だと思いながら近づくと、それは青年だった。

街角のイタリアレストランを指差し、あそこで働いていると言うとにこりとした。素晴らしい、ボン・クラージュ。身振り手振り、そう伝えるだけでやっとだが、青年は大きく頷き再び笑顔になった。白い歯並びが綺麗だった。

‥‥これだけの意思交換だから、詳しい事情は分からない。切れ切れのシーンを思い浮かべてはつなぎ合わせ、想像するしかないけれど、青年の働きぶりがレストラン経営者の目にとまったのは間違いないだろう。

街角を通り過ぎるとき、青年の姿を見かけるようになった。テラス席をセットしていることもあれば、シェードの加減を点検していることもあった。大きなゴミ袋を両手に提げているときもあれば、キャップをかぶり両手の泡を拭いながらというときもあった。

レストランの開くのは午後7時。午後4時くらいから掃除を始め、テーブルをセットし、それ以降は地下にあるキッチンで皿洗いとかの雑用をしているようだった。

やがてコロナ禍が世界を覆い、パリの街角にも容赦なく感染の嵐は吹き荒れた。まちは用件のある者のみが足早に行き過ぎるだけで、レストランもカフェも店を閉めた。閑散としていた。

カフェのテラス席が開かれるようになってからもレストランはなかなかオープン出来ず、営業再開を許されるようになってからも自宅で仕事するひとが増え、通勤者を顧客にする店はほとんど休業と言っていいままだった。

‥‥思いがけなく「ボンソワール」と声を掛けられたのは、知人と外食した帰り道。街灯の明かりのもと、にっこり笑ってこぼれ出た歯は白く光っていた。レストラン並びのステーキハウスを「ここに替わった」と言い、閉店のための片付けを始めたところのようだった。

イタリアレストランと違って、子ども連れの家族や若いグループに人気の店だった。当面細々としか営業できない店から、人手がいくらあっても足りない店へ移ったことになる。それも近隣の店となれば、やはり青年のふだんの仕事が評価されたのだろう。

フランス社会では職場を替わり、経験を蓄積することがステップアップを意味する。

それからまた、きびきびと立ち働く青年の姿を見かけるようになった。ある日、営業昼時間と夜時間の間、店先のテラス席に腰を下ろしていた青年は「ボンジュール」と大きな声でこちらに呼びかけ、手を振ってきた。

青年の前にはさらに若い男の子がひとり腰を下ろし、青年と合わせるようにこちらを振り返る。後輩なのだろう。サヴァ、ビアン。挨拶を返すと青年は、‥‥いやもう青年と呼ぶにはためらわれる彼は、聡明そうな顔つきで頷き微笑んだ。