何年前になるだろう。オルセー美術館はパステル画を集めた薄暗い展示室に足を踏み入れた途端、磁力を受けるように惹き寄せられるものを感じた。‥‥ああローデンバックだな、とただちに気づいた。
決して大作ではない。太陽光を遮蔽したなかに並んだ数多くのパステル画のひとつ、それもそれよりずっと以前、たまたま手にした文庫本の表紙に小さく刷り込まれていた作家の肖像に過ぎない。
それがどうして磁力を放ち、こうもあっさり呼応して気づくことになったのか、われながら不思議の感覚にとらわれたものだった。
岩波文庫「死都ブリュージュ」(窪田般彌訳)表紙の惹き句にはこうある。
世紀末のほの暗い夢のうちに生きたベルギーの詩人・小説家ローデンバックが、限りない哀惜をこめて描く黄昏の世界。
たまたま手にした文庫本の表紙で眺めた肖像と文章に誘われて、19世紀世紀末ベルギー象徴派作家の作品世界を旅することになったのだった。
突然の病で若い妻を失った男は、ひとりブリュージュで憂愁の日々を送っている。遠いルネサンスの時代「北のヴェネツィア」と呼ばれたまちは、縦横にめぐらされた運河の掘割や大聖堂をはじめとする堂宇の数かずに、古い繁栄の日々の記憶が降り積もっていた。
今日より昨日、現在より過去。灰色の空、重い雲、霧雨に覆われた石のまちはひっそりと運河に影を落とし、その影は時の経過をなぞり、往時を刻むようにたたずんでいる。しっとり大気に覆われたひそやかさは、ひたすら妻を偲ぶ男の日々に重ね合わされていく。
オルセー美術館で巡り合った青い目の肖像は、妻を失った男を呼び覚ますものだった。呼び覚まされた男の世界に誘い出されるようにブリュージュを訪れたのも、もうずいぶん以前のことになる。
ブリュッセルから列車で30分あまり、真夏であるにもかかわらず垂れ込めた雲に封じられたまちは、うすら寒い冷気を孕んでいる。ただし「死都」とのイメージからは遠い。
北方ルネサンスのかつての中心都市のひとつとして、聖遺物を安置する教会の所在地として、観光の旅と巡礼の旅をする人びとが集まり賑わいを見せている。
もっとも縁日の夜店屋台に群がる人影のすぐ裏に、神社境内木立ちの深い闇があり、数多くの参詣人を集める門前町街並みの陰には隠しようのない倦怠感の澱んでいるように、賑わいの奥に眠たげな閑けさが横たわっている。
‥‥いまわの際に切り取った妻の毛髪、男にとって聖遺物たる髪の束だけが無彩色の場に金色の彩りを添え、いつしか「喪」の日々は5年に及んだ。
ある日、男は亡妻と瓜二つの女性に出会う。似ている、しかしそれはしばしば残酷な詐術というべきだろう。似ている本来のものを呼び起こしながら、同時に似ているに過ぎない、差異の鋭い裂け目を見せつけるから。
似ていることはもとより同一性ではあり得ない。あり得ぬどころか相容れぬ異物ともなる。容姿だけそっくり、中身のまるきり異なる存在は、外見の類似がかえって相違を際立たせさえする。
ブリュージュがかつての栄華を年に一度甦らせる祭礼の日、男の家に押しかけた妻そっくりの浮かれ女はよりによって聖遺物、妻の髪の束をケースから取り出し、悪ふざけする。
男の中で耐えてきたものがぷつりと切れ、女の首に巻きついた妻の毛髪を両手に握るや、渾身の力を込めていく‥‥。このときブリュージュは妻と一体化し、妻の遺した毛髪は祭礼の具と一体化していた‥‥。
追憶に生きる。忘却の網目から掬い取ってきた記憶を集め、追憶に生きる。聖なる記憶をもてあそび、追憶を辱めることは決して許されない。
本を置くと、気の向くまま白鳥の遊ぶ運河を渡り、聳える石積みの堂宇を仰ぎ教会を覗いた。
キリスト教に深い知識のあるわけではない身には、このまちの教会ではじめて目にする意匠があった。十字の前で自らの胸に向けて首を垂れた鳥のような意匠。それは、心穏やかではいられぬ印象を残すものだった。
後になって、ペリカンを意味すると知った。ペリカンは自らの胸を嘴で傷つけ、流れ出る血を与えて雛を育てるという伝説があると。
血のにおいが生々しい余韻をひく。救世主はそのように意識され、祈られてきたのだろうか。
ブリュージュ。それでも閑かな追憶のまちであることに変わりはない。