同い年の夫婦ふたり70歳を迎えた記念に、ル・クルーゼのココットを買おうと決めた。鋳物製のずっしり重い、楕円形の鍋。まともに使えば親子三代にわたって台所の主役を務めようという代物だ。
ずうっと憧れだったの、今手にしなければ憧れのまま終わってしまう、と言われればこれが最後のチャンスにも思えてくる。焼き鳥よりぶり大根、ステーキよりシチュー、ことこと煮込む料理の旨みを身に沁みて感じるようになった年代にふさわしい。
折しもBHV〔ベー・アッシュ・ヴェー〕でセールをしていて3割引きで手に入るとあって、ふたりで出向きあっさり手に入れたまではよかった。しかし、これが重い。5キロはしないというし、たかが鍋、とみなしていた浅はかさを思い知る。
またしても。ふたり顔を見合わせ、苦笑いを浮かべる。
パリ暮らしは際限のない荷運びだ。
人生行路の比喩などではなく、文字通りの意味で。ワインやマスタードの空き瓶、野菜くずや残飯、チーズの包装紙など生ゴミを持ってアパルトマンの螺旋階段を降りる、ここから外出は始まる。
一歩街に踏み出すと、世界じゅうから集まってきた旅行者がスーツケースやトランクを引いて行き交っている。石畳を転がるトランク底の車ががらがらころころ音を響かせる。
横丁の角からは目の前が見えないほど大きな箱を両手で抱えたマドモワゼルがすたすた飛び出してくる。持ち帰りピッツァを3箱分、水平を保ちながら掲げるように歩く髭面のムッシュと危うくぶつかりそうになる。
クリーニング店からはハンガーにかかったままのスーツやワイシャツを手に、肩からはパソコンの入ったショルダーバッグを提げたビジネスマンが出てくる。巨大なクマの縫いぐるみを背中に括りつけ、オートバイにまたがる子煩悩なパパもいる。
観葉植物の鉢植えを抱きかかえるように運ぶマダムもいれば、アンティークの店で仕入れたのか、剝き出しのままのビロード張り安楽椅子を休み休み運ぶムッシュもいる。買ったばかりの椅子の座り心地を確かめながら家に運びこめるという寸法だ。
メトロの中であろうとバスの中であろうと、この風景は基本的に変わらない。老いも若きもお金持ちもその日暮らしも哲学者も悪童も、さまざまな荷を持ち運びながら同じ場に居合わせる。
近所を散歩がてらちょっと買い物でも、というときにはショッピングカートを引いていくに越したことはない。公園のベンチで本を広げるときも、カフェのテラスで一服するときも、ショッピングカートを引いて。
週末マルシェへ買い出しに行くときにはもちろん必須のアイテム。鮮度を要する野菜、果物、魚介類と花はもっぱらマルシェで。商売熱心なチーズ屋に寄り、ついでに肉類も詰め込んでとなると、蓋も出来ぬほど膨らんだものを引いて帰ることになる。
いやはや、際限のない荷、際限のない運搬事業なのだ。
長径29センチと表示された楕円形ココットの入った段ボール箱を両手に抱えると、下方に目が行かないからメトロの駅の階段は避ける。えっちらおっちらバス停を目指す、ベンチでひと休み、さらにバスを乗り継ぎ、横丁を曲がって。
よろよろ螺旋階段を運び上げ、荷をほどき、琺瑯引きココットの存在感を目にするや、夫婦ふたりほっと息をつく。まさに鶏まるごと一羽すっぽり収まる大きさだ。
これだけでひと仕事もふた仕事もなした思いだが、ここは一気にコンロに据え、使い勝手を試してみるまで脇目も振らずに。あり合わせの食材、キャベツや根菜類にモルトーという燻製ソーセージ、ベーコンの塊を放り込む。一度沸騰したら後は弱火でことこと。
まろやかにほっくり素材の旨みが口のなかでハーモニーを奏でる。にほん昔噺によく描かれる夕餉のシーンが目に浮かぶ。炉端にみなが集まり、自在鉤に吊るした大鍋を囲んでいる。ぐつぐつ食材が煮えたつのを待って木蓋を取ると、湯気とよい香りに包まれる。
子どもの頃から夢見ていた幸福に、やっと出会えた気持ちになる。
‥‥こうしてココットは「お荷物」になることなく、ありがたい道具、お料理器具として迎え入れられることになった。めでたしめでたし。