特に思い出すこともなく過ごしてきた、遠い日の出来事がある日再び大きな彩りを放つ。そんなときがある。古い記憶をあらためて体験し直すような。
クロード・ルルーシュの「男と女」を観たのは、高校生になったばかりだった。大人に連れて行ってもらうのではなく、はじめて友人と自分の小遣いで入って観た映画は、銀座の並木通りにある名画座だった。
モナカに包まれたアイスクリームを売っているような大画面のロードショー館ではなく、映画通に話題のフランス映画をこぢんまり眺める。生意気な小僧っ子は、そういう見方をすることに憧れていたのだ。
‥‥音楽担当フランシス・レイの名と共にしっかり刻まれていたのが「へえクロード・ルルーシュってこういうひとなんだ」、目の前に実像として登場したのはテレヴィのニュース番組。銀座の名画座からは50年以上の歳月が流れていた。
ジャンポール・ベルモンドの訃報を流す画面でインタヴューに応える姿は、なんとも小粋なくせに痛みに似た余韻を残す映画、あの映画の監督、あのルルーシュとは咄嗟に結びつかなかった。
街角で普通にすれ違い、カフェのカウンターで隣に立っている、互いに気にも留めずにいるひとびとのひとり。実直で、いくぶん頑固な職人さんといった印象で、なんとなく顔貌のイメージを摑めたという程度だった。
いくらも間を置かず、これまた訃報を受けてのインタヴューで彼を観ることになる。亡くなったのはベルナール・タピ。俳優、実業家、サッカーチームの経営者、政治家として活躍する一方、スキャンダルに事欠かず獄中体験もある「有名人」で、その親しい友人としてコメントしていた。
ルルーシュとタピ、この取り合わせにも驚いたが、友を偲びながら友と共にあった日々を想う、哀惜の切実さが胸を射た。二度目のルルーシュは、過ぎゆくときに呆然と立ちすくむ、耐えるひとだった。
2018年11月に亡くなったフランシス・レイ、まる3年の追悼コンサートがあるから来ませんか。コンサートに関係している方からお誘いを受けたのはそんな折だった。
グラン・ブルヴァールに沿って立つ大劇場のひとつで開かれたコンサートはフランシス・レイの仲間たち、とりわけ「男と女」に携わった仲間たちによって催されたもので、年齢にすれば70代、80代のミュージシャンが舞台に並ぶ。
街角の骨董市を覗き込むような興味で眺めていた舞台はしかし、ニコル・クロワジルが「ダバダバダ、ダバダバダ」とあのテーマ曲をやり始めるや、すっかり別のものとなる。
幾度となく耳にしてきた曲が、半世紀を経てオリジナルの奏者、オリジナルの歌手によって歌われるのをパリの、それもグラン・ブルヴァールの劇場で聞く。それは特別なことなのだ。
映画撮影のスタントマンだった夫を事故で亡くした「女」(アヌーク・エーメ)はレーシング・ドライバーの「男」と知り合い、ドーヴィルの海岸を歩く。犬を連れて散歩する老人のいる浜辺。‥‥古い記憶の中のシーンが突然よみがえる。
スクリーンいっぱいにひろがるモノクロームの光景、ノルマンディの海辺。かつて観たはずのシーンと、実際目にしたことのある景色と、夢で見たに違いない情景が入り混じる。
アヌーク・エーメをスクリーンで観る前と観た後では、女性をまるきり別の視線で眺めるようになったことを思い出す。ドーヴィルのシーンを目にする前と後では、世界はまるで異なる現われ方をするようになったことに気付く。
テーマ曲につづいてクロワジルは「プリュ・フォー・ク・ヌゥ」、愛はわたし達よりはるかに強いと歌う。映画のなか、亡くなった夫への断ち切れぬ「女」の想いと対応するように流れた唄だ。
追憶と現実と。引き裂かれる意識に揺れながら、ひとは生きている。
パリへ帰る列車に乗り込む「女」を見送り、「男」は車を飛ばす。別れの後、再び出会うために「女」を追って。‥‥あのシーンを撮り、音楽を奏していた人びとが一堂に会し、こうして今ここにいる。
デュエットしていたピエール・バルーはすでに亡く、ニコル・クロワジルは客席最前列にいたクロード・ルルーシュを舞台に招き上げると、共に歌うよう促す。
舞台じゅうのミュージシャンから、客席じゅうの観客から、劇場じゅうのエールを受け、顔を赤らめためらいながらルルーシュはデュエットする。そうすることでレイやバルーと共にあったときを追憶し、歳を重ねた現実を受け容れるように。
‥‥追憶と現実と。半世紀前に自身の造った映画のテーマをなぞっていた。歳月の分だけ豊かさを増し、コクを醸して。
かつて背伸びして名画座に入った小僧っ子も、感じ取れるようにはなった。紆余曲折を経て、奇跡的にこの場に居合わせている。今こうしてパリに在る意味を。
ときはめぐり、想いはめぐる。ひとは出会い、ひとは別れ、追憶のうちによみがえる。追憶の豊かさだけが現実を確かなものにする。