街路樹の紅葉が枯れ葉に変わるころ、石の街には這いのぼるような冷気が押し寄せる。しかし、それにもましてこたえるのは、日照時間の短かさだ。それでなくとも重い雲が垂れ込める、今にも氷雨の落ちてきそうな空模様。晴れても陽の力は弱く、風の冷たさが頰を撫でる。
どうしたってふさぎがちになる気分を払拭しようと、これでもかこれでもかと催事が企画され、話題のエクスポジション、コンサート、舞台は増え、待ちきれぬように街にはクリスマスのイルミネーションが輝き始める。夜の空の暗さをキャンバスに、光の装飾で覆ってしまおうというように。
普段はしっかり財布の紐を締め、無駄遣いをしないパリっ子たちがこの季節には大盤振る舞いする、その喜びに身を浸らせる。
親類縁者一人ひとりに贈るプレゼントをひと月かけて探し、少しずつ買い溜めてパーティーに備える。そんな習慣を、今でも大切にしている地方や家族は多い。両手に一杯のプレゼントを抱え、一家で里帰りするパリジャンもよく見かける。
どこか懐かしさを覚えるのは、昭和の年越し風景の思い出と重なり合うからだろうか。
モミの木を居間の中央に据え、飾り付けをすませればいやでも気分は高まる。近親者が集まり、プレゼントを交換し、何時間もご馳走を前にお喋りを繰り広げ、ゲームに興じる。
そこまで大袈裟にやらなくとも、クリスマスは身近な家族とゆっくり過ごす、大切な行事だ。
地方によって並べられる料理は違うだろうが、パリ周辺で最大公約数的なものとして用意されるのは、まず前菜にフォワグラ、茹でエビや鮭の燻製あたりが定番か。シャンパーニュの栓が抜かれるのは特別な宵だから。
そして鳥の丸焼きを切り分けて食べるという流れ。七面鳥やほろほろ鳥、アヒルも見かけるけれど、個人的には鶏がいい。ブレス鶏はじめ農家で放し飼いにされていたものなら、文句なく美味い。
ジューシーでありながら、骨の周りの筋肉質の歯ごたえ。焦げ目のついた皮の香り。これはもう手づかみ、気軽な赤ワインでぐびぐびがつがつやる。
‥‥などと調子に乗って書いていると、クリスチャンでもないのにクリスマスですか、鼻先で笑う冷やかしの声が聞こえてきそうだ。
楽しいと思える習慣、年中行事ならなんでも取り入れればいい。まして宗教的な色彩を越えて生活文化・習慣に溶け込んでいるならそれはそれでいい、というのが基本的な立場だ。
しかし、この言い方は舌足らずで誤解を招きがちなので、クリスマスについてはもう少し説明しておきたい。
年間を通じ安定していて自然災害の少ない西ヨーロッパの気象は恵まれていると感じる一方、高緯度地域の特徴で夏冬の日照時間の差はなかなかハードだ。これが人びとに与える影響は大きい。
陽の長い季節、公園でカフェテラスで河畔で広場で目一杯日光浴をしているのも理由のないことではない。陽の短い季節を生き抜くため、身体健康上の必須条件と言ってもいい。また精神面でも季節性鬱病、冬になると鬱状態になる人びとは多いのだ。
太陽が恋しい。陽光の復活が待たれる。‥‥そこで冬至は特別な色彩を帯びてくる。
なにしろ、弱り切った太陽がその極致にいたり、いよいよ回復へと転じる。太陽の甦り、大地の甦り、その起点こそ冬至なのだから。
冬至の祭り、冬至通過儀礼は、したがってヨーロッパ各地に太古からあった。さまざまな部族や語族、言葉、居住地、習俗、文化の違いを超えて、それぞれの形で。
ずっと後世に成立した宗教が、もともとあった冬至への想いを布教に利用するのも頷ける。いつの間にか、冬至を通過した喜びの日々を教祖の誕生日として設定したのも、宗教経営者としては卓越した手腕だっただろう。
信じるところ、想うところ、それぞれ物語は生まれ、紡がれていく。その物語に目くじら立てるほど野暮ではない。陽光復活の喜びは、一宗教、一宗派に回収されるほどちっぽけなものではない。喜びは分かち合えるに越したことはない。
というわけで、近所の肉屋のオヤジご自慢、自家製フォワグラ・ミキュイを思い切って買ってくるのがここ何年かのならいになっている。舌の上で溶けていく感触と香りの豊かさは、ひとつの食文化の達成点であると思う。
鉛色の空を見上げ、これは太陽の復活に向けた道筋なのだ‥‥。こうして今年もクリスマスがやってくる。そう感じ取れることを喜びたい。