60年代は、と問われて

退職後フランスに暮らそうと考えたとき、さすがにいくらかなりと言葉の訓練をと、仕事の合間を縫ってフランス語のレッスンを受けることにした。

言い訳めくが(言い訳にしかならないが)、自分で自由時間を編み出すなど容易ならざる勤め人の身で週一度、予習も復習もなく受ける個人レッスンだから、効果のほどは語るも虚しい。

それでもここで会うフランス人講師たちは個性的で、レッスンが楽しみだった。そのうちのひとり、いま思うと20年は年下だったのだろう。南仏ニース出身のC氏は、日本の60年代を研究テーマに来日、知り合った日本人女性と結婚、そのまま居ついてしまったという。

おばあさん、タロットカードをいじるのがすきでした。おまえはとおくにいくね、こどものころにいわれましたが、ほんとうにそうなりました。‥‥幾分の悲哀と自嘲をこめた微笑みを浮かべて、C氏はそう自己紹介した。

レッスンを受けに来るのは基本的に若い世代で、60年代を実際に体験している、いい加減頭脳の硬直した年代の、それもおっさんは珍らしいらしかった。

それで舌なめずりして迎えられたというわけでもあるまいが、そんな事情を知らぬ当方、60年代をどういう年代として記憶しているのかいきなり問われ、狼狽しつつも刺激的な経験となった。

うーん、と思い起こしてみる。

個人史的には8歳から18歳に相当する、多感にして問題の多い、今に至る「私」の基本の形作られた時期。いやいや大変な10年だったのだ、と思い返す。

テレヴィが家に入ったばかりだった。ザ・ピーナツとクレイジーキャッツが好きだった。栃錦の引退が残念だった。月光仮面とララミー牧場と。サンセット77と脱線トリオと。

子どもの世界に次第しだいに「漫画」が浸透、定着していくのもこの時代。手塚治虫、横山光輝、白戸三平、月刊雑誌が待ちきれなくなった頃週刊誌が登場する。「少年」から「少年マガジン」へ。

1964年の東京五輪、70年の大阪万博に象徴される経済成長期で、昨日より今日、今日より明日の方が豊かになる、と素朴に信じられていたのもまた事実だ。

三種の神器、自家用車、巨人・大鵬・卵焼き、不二家のショートケーキで誕生日を祝ってもらうのが嬉しかった。そんな小学校から中学校。東京・新宿の公立だったから、クラスメイトがさまざまな背景を持っていることにも気づかされることになる。

お手伝いさんが何人もいるような老舗のお嬢さまから、職を求めて東北地方から流れ着いた困窮家庭の女の子もいた。裁判官の息子もいれば、オヤジは××組でオフクロはバーのママだと意気がっているのもいた。

なにもかもごちゃまぜだった。実際、冷戦を背景にした経済復興期だった。儲かる者は儲かった。さして儲からない者も儲かった気になった。少なくともおこぼれにはあずかった。

大江健三郎に衝撃を受け、安部公房に刺激され、人文書院版のサルトル全集を買い集めた。ビートルズ、モダンジャズ、シャンソンとの出会いがあったのは、ラジオをよく聞いていたからだろう。

第二次大戦の戦争下手人である自覚と内省を促そうとする試みがありながら、最終的に忘れることを社会の多数派は選んだ。いつの間にか、本来この列島の住民は、平和を愛する温厚な人びとなのだとの思い込みに浮かれ、酔った。

それが楽だったから。楽をよしとする統治者になびいて、尻尾を振り、じゃれつく。天皇制のもとに結ばれた対米単独講和、日米安保条約、地位協定が固定され、その毒が全身にまわろうとしていた時代でもあった。

思い出すにしたがって、二つの象徴的な暴力が甦る。

1960年、社会党委員長の浅沼稲次郎が、演説会で右翼の少年に刺殺された。空前絶後の盛り上がりを見せた安保闘争の直後、ダメ押しのようにふりかざされた電撃のような暴力が、茶の間の一角に据えつけられたばかりのテレヴィの画面に映し出された。

そして1970年、自衛隊駐屯地に私兵と共に乗り込んだ作家・三島由紀夫は、決起を促す演説の後に切腹。介錯の後に斬り取られた首の写真が新聞の一面に載った。

それぞれミステリアスで今に至るも謎めいた血腥〔ちなまぐさ〕いふたつの事件。60年代とは、まさにこのふたつの事件によって切り取られ、縁取られた時代だった。

まとまりのない個人的な感懐は、外側からの視線で研究しているC氏にどう伝わっただろう。こんな会話を交わした頃から、もう10年が経つ。