どうでもいいお喋り

この春、たまたまこんな記事が目に飛び込んできた。

日本、米国、ドイツ、スウェーデンの60歳以上の高齢者を対象に実施した国際比較調査で、日本の高齢者は約3割が親しい友人がいないと回答し、4ヵ国中最大の割合であることが分かったというもの。

どういう目的の調査で、対象がどうしてこの4ヵ国なのかという疑問はひとまず置く。この結果を見て、逆に7割は親しい友人がいるのかという素朴な驚きもこの際保留にする。

一般にこういう調査をするとき「親しい友人」とはどういう人物を指しているのか、その定義が気になったからだ。

共同通信の配信した記事によれば「家族以外で相談や世話をしたり、されたりする」親しい友人とあるから、プライベートにかかわることを打ち明けたり話し合ったりすることが出来る仲という意味らしい。

なるほど。それはよくわかる。心配事や悩み事、プライベートな問題を語り合えるのは日々の生活にあって大切な関係である、異存はない。

しかし、それが「友人」だと言われるといささか違和感を覚える。友人とは世話をしたり、悩み事を相談する、本来そんな実利的なものをいうのではないとの思いがあるからだ。別に実利的な側面があっても構わないけれど、少なくとも実利面に限った関係ではないだろう。

実利的というなら、弁護士や心理カウンセラーの方がよほど頼りになりそうだ。けれどそれは友人とはまた別の話。むしろ何かの役に立ってもらえるなどと期待したり計算したりすることのない関係、それをこそ友人と呼びたい。

役に立つか立たぬか関係なく、どうでもいいことを気軽に語り合える。友人の友人たる所以はここにあるのではないか。

そんなことを考えるようになったのは、やはりコロナ禍の引き籠もり生活が大きい。どうでもいいことを大口開けて笑い合える関係がいかに得難く貴重なものであったかを再認識する機会になった。

「暑いね」「なまじっかなもんじゃないよ、カナダじゃ50度近く、ギリシアでも40度超えたっていうじゃないか」「風呂より熱いんだね」「あんまり暑いからお前、近くにこないか。なんて彼女を抱き寄せる」「なんだ、そりゃ」「だって体温より熱いんだぜ、ぴったり抱き合っていた方が涼しいわけさ」「今どきの口説き文句かい」「おいみんな、暑いからおしくらまんじゅうやろう」。

「年長者の3割は友だちがいないんだそうだ」「わずらわしいからね、お友だちってヤツは。土足で入り込んでは、見張るような粘っこい視線。妬み深いくせに、少し気を許せば際限のない愚痴話」「うっかりすると処世訓たれて、宗教の勧誘なんか始めたりして」「つくづく鬱陶しいね」「俺たちゃお友だち関係にならねえよう気をつけよう」。

要するに八つぁん、熊さんのお喋りである。落語の世界のどうでもいい言葉のキャッチボール。その豊かさを引き籠もり生活は教えてくれた。

酒でも酌み交わしながら、実際に顔を見て語り合えればそれに越したことはないけれど、メッセンジャーでもメールでも充分やれると感じ始めている。垂れ流しでない分、洗練された「どうでもよさ」の生まれる可能性だってある。

そもそもどうでもいい会話の前提には、互いに生きる「今」と「ここ」、「場」を共有しているという想いがある。共生感から発する言葉には自然な感情の発露があり、感覚が込められ、それぞれの観察眼や批評精神が生きる。

相手の反応を見ながら、少し笑わせてやろうかとサーヴィス精神も発動されれば、知的な刺激が脳を活性化、話が弾めばおのずと共感を覚えることになる。話題だって移り変われば新たな発見と展開を生み出すことだろう。

それこそお喋りの醍醐味、共に語り合える友人あってこそだ。

ところで、こういうどうでもいい会話は、当然のことながら、どうでもいいことイコール無駄なこと、余計なことと感じる方がた、「またくだらないことを」「よせよ時間の無駄だ」と冷笑、薄ら笑いを浮かべる方がたのセンスとは大いに異なる。

異なるどころか、まるきり逆、鋭く対立すると言ってもいい。ことばの遣り取りのうちに互いの感受性を確かめ合う、そんなどうでもいい会話を無意味と切り捨て冷笑する方がたは、実はどうでもいい会話ひとつ満足にできない方がただ。

どうでもいいことを語れぬ以上、どうでもよくないことだって話し合えるはずはない。ことばの遣り取りができない、議論ができない、自らの識見を組み立て相手を説得するなど逆立ちしたってできやしない。

「おいおい、そんなことはまったくないと言ってるよ」「説明も根拠も示さず冗談ひとつなく、まったくない、ただそれだけかい」「ああ例によって威嚇と威圧のみ」「どこぞの芋ざむらいのまんまだね」「虚しい人生だと思わないのかな」「そんなことはまったくないと言ってるよ」。

特定の誰それを想定しているわけではない。特定するまでもなく、このタイプの方がたは数多く棲息する。

どうでもいい会話を愛する者とせせら笑う者と。両者にうがたれた溝は埋めようもなく深い。それを悟ったのも引き籠もり生活のお蔭かもしれない。

冷笑する方がたをこそ笑い物にして、どうでもいいお喋りに彩りを添えよう。それは自然にことばの刃〔やいば〕をみがき、友との連帯を深める機会となるに違いない。

スッチーの味方です » 遊歩舎
久々に日本の航空会社便を利用したときのこと。 エコノミークラスの最後尾、通路に面していくらか広め、トイレも近いし飲み物などを用意してあるコーナーにも近い。満席だというから、何時間にも及ぶフライトでこの座席を確保できたのは […]
いなかモンはヤだねぇ » 遊歩舎
いなかモンはヤだねぇ、と言ったら、東京に生まれ育ったっていうだけで地方出身者を差別するんですか、と青筋立てて抗議されたから驚いた。 東京は神田で産湯につかろうが、大阪の船場で育とうが、ニューヨークで仕事しようが、ミラノで […]