引き籠もり、隣は何をする人ぞ

COVID−19の猛威は衰えず、国境閉鎖もかなりタイトなものになった。特に帰国の予定もなく暮らしてきたが、いざ往き来が困難となると、ついに母語の自由になる場所と切り離されてしまったかとの思いがよぎる。

この感染症、なかなか手強いヤツで、とにかく人と人を離れ離れにする。このままいくとだんだんひとを忘れ、ひとに忘れられていく。ボルネオだったかスマトラだったか、森の木の上、夕陽を浴びたオランウータンの孤影が思い浮かぶ。

孤影は孤影でも、こちらはそれほど絵にならない。あくびしながら、いつか読み直そうと積まれた本の背表紙を眺め、漫然とパソコン画面を追いかける日々のうち、なんと、フランス語を勉強しようかという気になった。それも女房と。

8年もパリに暮らしながら、フランス語がさっぱり耳に入ってこない。聞き取れない。キミらね、フランス語話すならせめてゆっくり話してよ、他人に理解してもらおうという気に欠けているんじゃないの。溜め息をつきたくなるほど、言葉として伝わってこない。

パリはフランス語の話せぬ、そんな住民を受け容れてきた。メトロの中でも住宅街のマルシェでも、世界中の言葉が行き交うから、暮らすというだけなら、さほどの不便は感じない。

カフェでマダムににっこり笑いかけられたり、逆に公園で目つきの鋭いにいさんに声を掛けられたりすれば、どうしてなのか、せめて理由くらい把握しておきたいと思うことはある。

しかしそれにしたって、タバコを持ってないかと話しかけられたとか、ひとと目が合うと条件反射的に微笑む習性のご婦人とたまたま目を合わせてしまったとか、そんなところがオチだろう。

深刻な事態に及んだためしのないのをいいことに、小鳥のさえずりを聞いている気分で過ごせばいい、基本的にはそのスタンスでいる。

なにせパリに暮らそうと思い立ったのが40歳になるかならないかの頃で、実現したのは還暦過ぎてから。勤め人生活でフランス語を身につけるだけの余裕はなかったし、こちらに来てからだっていろいろテーマはある。語学なんぞに時間を掛けるほど暇ではない。

‥‥などと言い訳しても仕方がない。要するに学ぶことが嫌いで避けてきたのだ。

まめに何かを繰り返すのは苦手、音感悪く記憶力ときたらニワトリなみ、そのくせ小心で教師に得心のいくまで質問できない。語学的才能に無縁なことはもちろん、才能以前に語学を学ぶ体質というか資質のようなものが根本的に欠落している。

今や還暦をはるかに過ぎて古稀近く、引き籠もり生活の中でフランス語を学ぶとなれば女房とやるしかない。

いつの日にかパリで暮らそうと思い立ったとき「いいわよ」とあっさり同意した彼女と、20年を経て、なんとかともかくパリに辿り着くことはできた。

この20年、いわば準備期間とでも言える時期に、こちらは駄目でも女房の方はなんとかやるんじゃないか、との読みがあった。甘い希望だった。甘すぎる願望だった。

何年か前に読んだ覚えがある。科学的に有意性ありとされた男女の能力の性差による違いのひとつに言語能力があって、これは圧倒的に女性に軍配があがるというもの。

‥‥子どもの頃からの自分を振り返れば、チャーリー・ブラウンを思い浮かべるまでもなく、男の子はいつだって女の子にやり込められてきた。大きく頷きながらわが女房の言語能力をなんとなく信じ込んでいた、我が身の不明を恥じる。

もっとも、この「言語能力」なることば自体、いかなる能力を指すのかいささか疑問は残る。階下のアパルトマンに住むムッシュ、われわれと顔を合わせると必ず女房の方に話しかけるのは、ちゃんと意味が通じて会話が成立すると思い込んでいるからだ。

相手の表情を見ていて、言葉の途切れたときに絶妙のタイミングで「合いの手」を入れる。「ええ」「まあ」「分かりますわ」「そうですね」、相槌に、ときにはジェスチャーまで交える。

まったく聞き取れていないくせにやってのける。‥‥これもまた、ある種の言語能力と呼ぶべきではあるまいか。今までの人生、この能力にどれほどもてあそばれてきたことだろう、わが熱弁はほとんどこの調子で聞き流されてきたのだろうか‥‥。

深く考えても決して解けない疑い、謎はいくつもある。謎は謎のままにしておいた方がいいものもある。歳を重ねれば少しは学ぶ。

引き籠もり生活がなければ思いつかなかっただろう、こんな調子のレッスンだから、その水準の低さたるもの語るまでもない。

フランス語には基本になる動詞が十数個あって、これをマスターしてしまえば、まず日常会話の第一歩は困らない(ことになっているそうだ)。ということでまずは活用の練習。

不規則で複雑な活用とはいえ、ほんの十数個。赤ん坊だってそこから自然に覚えるくらいの基本中の基本。いくらなんでも、と思いつつ咄嗟には出てこない。咄嗟どころか、頭をひねっても出てこない。おいおいおい。よく8年も暮らしてきたものだ。

「キミ、それ助動詞が違うだろう」「なによ、bvの発音の区別も出来ないくせに」「発音はこの際棚上げにしないか」「自分の苦手なものはいつもその調子なんだから」

実際の勉強時間より、言い争いの時間の方が長い気もする。これも将来、ふたり老人養護施設に入ったときの訓練だと思い見なすことにする。歳を重ねて学んできたことは多い。

なんといっても老人施設となれば、生命力の弱い男性は男性というだけで稀少価値。ざま~みろ、ちやほやされるのはこちらなのだ。そのとき可愛い看護師のマドモワゼルや思慮深げなマダムに、たどたどしくも言葉を投げる、東洋の思索的な老賢人と映るように‥‥。

まずは基本動詞の活用を口に覚え込ませよう。日暮れて道遠し。‥‥引き籠もりの魔力がわれらに勤勉さをもたらさんことを。

パリの病院、婦人科に付き添う » 遊歩舎
念のために、と受けた家人の精密検査の結果が出る日。通訳のついてくれる病院なので、医師とのコミュニケーションに問題はない。どうせ何でもないと確信があったけれど、神経質な小心者のうえ極度の方向オンチを放っておくわけにもいかず […]