はじめてパリの土を踏んだ1989年。受けた衝撃の大きさからいつの日かこの街に暮らそうと決めた。以後、折に触れ手にしてきた「パリ本」をいくつか。
小説、フィクション、画集等は含めない。専門的な研究書も含めない。歩いているだけで揺らめく想いにとらわれる街の、いくらかなりと正体に近づきたい。そう感じたときから手にした導きの書、参考書の類にとどめる。
二日酔いの頭で寝転がって斜め読みしたもの、思わずメモを取ったもの、ちらっと眺めそれでも捨てられずにいたもの、さまざま。アトランダムに採りあげよう。ちょうど本屋の棚の前で、気ままに手を伸ばす気分で。
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◆パリ 歴史の風景(饗庭孝男・篇)
とは言いながら一冊目となると、やはり考える。そして‥‥個人的な「パリ本」のうちでも、パリ入門の指南書であったと同時に、今なおパリ遊歩に心強いガイドブックでもある本書から。
パリの歴史をさらりと描きながら、その時代を象徴する「場」が具体的に提示される。歴史が具体的な場所として、形をもって立ち現れる。逆にパリを歩きまわり無秩序に眺めていた「場」が、歴史の流れの内に収まる、そんな喜びを与えてくれるのが本書の特徴だ。
古代から20世紀初頭まで9章立ての、たとえば「バロックとパリ」と題された章を開いてみよう。
17世紀の略年譜が掲げられ、アンリ4世からルイ14世へと流れるブルボン王家初期の一世紀であると頭に置いたら、本文へと移行する。
宗教改革に対する旧教側の反撃から生まれたバロック様式の解説、イエズス会との関係、同じカトリックでも教皇のお膝元であるイタリアと絶対王政下のフランスでの温度差に触れ、パリに残るバロック建築を紹介する。
リシュリュー枢機卿によって再建されたソルボンヌ教会、そしてパリにおけるバロック建築の頂点としてヴァル・ド・グラース教会。さらにコラムの形で、この時代の建築と街並みの雰囲気を残す街区、サン・ルイ島、学士院界隈。
ひとつのテーマが多元的な視点から述べられる。グループによるチームプレーならではの一冊。
◆19世紀フランス 夢と創造 (小倉孝誠)
1843年に創刊され1944年に廃刊になるまで、ちょうど一世紀にわたって刊行されていた週刊新聞に「イリュストラシオン」がある。
この新聞がユニークだったのは、紙面に挿絵を取り入れ、活用したこと。木版の単色刷りからカラー、さらに写真と、技術革新によって紙面は変化を遂げていくが、19世紀半ばから20世紀半ばに至る時代をビジュアルに眺め渡せる、今や一級の史料となっている。
ここに注目して刊行されたのが本書。史料として取り上げられる機会の多い「イリュストラシオン」を主役に据えて、この時代のダイナミックな変動を見てみようという試みである。
この試みは成功し、3冊のシリーズになったその一冊目。鉄道、旅行、電気、地下の掘削、飛行‥‥科学技術の進歩・発展により、社会空間の変化していくさまが中心に採りあげられている。
19世紀パリ社会の移り変わり、近代性と近代化に注目する者にとって必読の案内書。1995年度澁澤・クローデル賞受賞作。
◆パリ歴史事典(アルフレッド・フィエロ、鹿島茂・監訳)
あらかじめことわっておくが、パリについて調べたいことが出来て本書を開いても、なるほどと解決に至ったためしはない。情報量の多さに比して実用的には出来ていない。
その代わり、ヒマつぶしには最適だ。適当にページを開くと思いがけぬ発見があって、ときににやにや、ときにぼんやり考え込んでしまう、そんな事典だ。
論より証拠、項目を羅列してみる。アイスクリーム屋、アカデミー、アカデミー・フランセーズ、悪名高き殺人犯、アパッチ、雨傘、アルマナ(暦)、アルルカン‥‥以上、「あ」から始まる項目。
家の数、家の番地付け、石、医師・医学、石工、遺失物、市、市場、射手、緯度、井戸、犬、色、隠語、印刷所、インターン、インフルエンザ‥‥以上、「い」から始まる項目。
いかがだろう。
石の街を歩きまわるしか能がないな、と感じているときはとりあえず「石」の項でも読んでみようか。こんな調子でページを開く。
すると‥‥またまたパリに取り憑かれていくことになる。
◆かの悪名高き(鹿島茂)
前出事典の監訳者として名の挙がった鹿島茂氏、せっかくなのでご本人の著作から一冊。
氏の最大の魅力は学者、それもフランス文学者と聞くや条件反射的に抱く息苦しさ、超俗的な価値観をふりかざす気取り屋、そういうステレオタイプと無縁の地平にあることだ。
シャンデリアの下でフォワグラを味わいながらシャンパングラスを傾けるより、居酒屋でモツ煮込みを肴に芋焼酎のお湯割りを引っ掛け、隣のオヤジにからむ。こちらの方がはるかに想像しやすい。
この感想は文章家に送る讃辞であること、あらためてことわるまでもないだろう。
そこで本書。「十九世紀パリ怪人伝」と副題にあるように、19世紀を生きた、強烈な個性の成り上がり者たち5人が紹介される。これが面白い。彼ら怪人物たちの記述に酔いながら、彼らの生まれてきた時代状況を味わう仕掛けになっている。
時代が人材を産み、人材が時代を作る。‥‥おもしろおかしく読んだ後、つくづくそんな感懐にとらわれる。
◆パリ史の裏通り(堀井敏夫)
今さらながらのセリフになるけれど、書籍との出会いには運命的なものがある。
パリという街にはじめて降り立ったときの衝撃、その衝撃の正体を知りたいと思って、はじめに手にしたのは本書だった。
時間軸と空間軸の交わる歴史的空間としてパリを味わうことの豊かさに触れ、旅と記憶と思索が、この都市を媒介に結びつき絡まり溶け合っていくのを知った。
どんな人にも「そこへ行って住めば幸福になれそうだ」と思いたくなるような土地がある。
まえがき、ページを開くとまずこの文章から始まる。しっかりした愛情に満ちながら、決して批評精神をなくした盲愛ではなく、情緒的な同化でもない。
博覧強記な記述に合わせて中世から近代へ、現代から古代へと時空間を遊び、いつの間にかパリという都市の中心に舞い降りる喜びを抱かせてくれる。その意味では決してタイトルのように「裏通り」ではない。
タイトルを裏切る内容。かつての知識人は、こういう遊び心と実力を持ち合わせていたと感じる。
せっかく本書に出会いながら、パリに降り立ったときの衝撃、その正体は相変わらず不明のままではあるけれど。