2020年、例年になく長くつづいた夏はいきなり幕を閉じた。冷たい冬の貌をした秋は、ジュリエット・グレコの訃報と共にやって来た。
‥‥深い低音、艶〔つや〕のある発声、グレコの唄はひとつの音楽世界への扉だった。その扉の向こうにプレヴェール、シャルル・トレネ、ゲンスブールやブレル、ブラッサンスからレオ・フェレ、豊かな音楽世界の広がるのを知った。
レジスタンス闘士の家庭に育ち、幼い頃自身も収容所を体験。かのジャンポール・サルトルから詩をプレゼントされてのデビュ。ジャズ・トランペットの巨人、マイルス・デイヴィスとの恋愛。
ボリス・ヴィアン、ジャン・コクトー、フランソワーズ・サガンたちとの交友。名優ミシェル・ピコリとの結婚そして離婚。エピソードの一つひとつが輝き、彼女の羽ばたくサンジェルマンデプレは、憧れの街区となった‥‥。
東のはずれの島国に毎年のように飛来、コンサートに足を運べたのも貴重だった。シンプルな黒いドレスに身を包み、仰々しい演出もなければ奇を衒うこともなくひたすら歌い抜く。唄の持つ力、それだけでいい、それだけがいい。
長年の生活上のパートナーでもあるジェラール・ジョアネストとのコンビネーションは最上最強だった。ブレルの歌う名曲の作曲家であり編曲家であり、ピアニストであるジョアネストが控えることで、惜しみなく力を発揮できていたのだろう。
日程の合うチケットを手に東京近郊、相模大野のホールまで出向いたこともある。はじめて降り立った街で、ホールを訪ねコンサートを聞く。これ自体、新鮮な体験だった。
デビュ以来長く歌いこんだ唄と同時に披露される新しいレパートリー。「息子よ、歌え」と歌われたとき、実際に呼びかけられたような昂揚感を覚えた。帰途、知らぬ街で食した焼き肉の旨さと共に思い出す。
最多回数は渋谷のオーチャードホール。ここではテレヴィや雑誌で拝見する方がたの顔もお見受けした。ニュースキャスターを務めていたT氏をお見掛けしたときには、見掛けたどころかラウンジで目の合った拍子に思わず「こんばんは」と声を掛けてしまっていた。
こちらにとっては見慣れた、よく知る顔だから反射的に口をついて出た挨拶に、こういうケースはよくあるのだろう、氏は頰笑みながら「こんばんは」と返してくれたが。
オーチャードホールでの感動をそのままリムジンバスで羽田に向かい、深夜発のパリ直行便に乗り込んだこともあった。グレコ夫妻の列島巡りの間、逆にパリを旅する。そう思うだけで愉快な気分になったものだ。
‥‥シャンソンは3分間のひとり芝居。喜劇と悲劇、生活のささやかな場面のスケッチから心ときめく出会いと愛の恍惚、時代状況の諷刺、告発にいたるまで。コケティッシュなささやきから、毅然とした訴え、不可解な謎の提示まで。
才能豊かな多くの作詞家作曲家が、グレコのために歌を差し出したのは充分理解できる。抜群の表現力、すとんと胸に落ちる説得力、豊かな声の表情は、フランス語の持つ音の美しさとぴったり合っていた。
ひとつの音楽ジャンルの導き手にとどまらず、遠い島国の聴き手にとって、いつの間にかグレコはシャンソンの基準にさえなっていた。
何を聞いても誰を聞いても、グレコだったらどう歌うだろう、いつもそう考える。グレコより甘い、グレコより暗い、グレコより渇いている、グレコより激しい‥‥。
北極星。すべての星座が周りを取り囲み、回転していく中央に動かず、揺らぎもせずに北を指し示す。光り輝き、示しつづける星。
ジュリエット・グレコは北極星だった。
パリで暮らすことになって2015年年末、「メルシー」と題されたグレコさよなら公演のチケットを手に入れた。モンテーニュ大通りセーヌに近いシャンゼリゼ劇場。
若いアコーデオン奏者を中に挟んで、両脇にジョアネストとグレコ、手をつなぐように現われたとき、ふたりとも小さく縮んでしまったと感じた。それでもピアノの前に腰を降ろすとジョアネストの前奏は迷いがなく、高いヒールのグレコもすっくと姿勢を伸ばす。
あとはノンストップ。かつてのように、いつものように一時間半を歌い尽くす。たった3人で大舞台を席捲する。シャンソンに大舞台は似合わないという想いの湧き上がる間もなく。
こちら側、観客席も年配者が多い。グレコ夫妻と共に重ねた時をよみがえらせながら、別れを味わっているのだろう。演ずる者、聞く者それぞれ相互にメルシー、ありがとうを胸中に刻みつけて‥‥。
同時代を生きる。いかほどであれ感受性を共有できた。共通の感動を分かち合えた。‥‥そう感じ取れるのは、それほど容易なことではない。この年齢〔とし〕になれば、よく分かる。かけがえのない経験だったことが。
2018年、ジョアネストが逝った。今年の5月には前夫ミシェル・ピコリが逝った。‥‥そして。
ありがとうマダム、あなたと共にあった時代を忘れない。