新型コロナCOVID –19の脅威にさらされて以来、ひたすら手洗いに励んでいる。
起床時、食前食後、外出前後、事前事後、気分転換に、暇つぶしに、時間稼ぎに、気が向いても向かなくても、思いついたら、何はともあれ‥‥石鹸、消毒用アルコール。
心を入れ替えるたび足を洗い、悪い連中とも手を切ってきた。しかし、これほど手を洗ったことはない。肌はかさかさごわごわ、細かいシワが無数に現れ、指紋は薄くなり、物を摑もうとして滑り落としてしまうほど。
このウィルス、空中から体内に吸い込まれる呼吸系ではなく、唾液、鼻汁、血液、汗、排泄物はじめ、およそ人体から湧き出る分泌物、体液の類を介して感染する接触系・感触系なのだそうだ。
となれば、どうしたって「手」は問題視される。
指先の触れるどこにウィルスが潜んでいるか分からない。ドアノブ、鍵束、エレベーターのボタン、共用扉、郵便受け、封書、広告‥‥外出時の、ほんのひとこまを思い浮かべてみるだけでこんな調子だ。
実際、「手」は意識せぬうち実に多くのものに触れているらしい。そして、また絶えず自分の身体に触れているものでもあるらしい。どこにいるのか分からぬウィルスをくっつけてきては、自分の身体にこすりつけているわけだ。
髪をいじり頰を撫で、気づかぬうちに皮膚に口を開けた無数の汗腺をなぞり、痒いところに自然に伸ばして搔いては傷口をみずから作っている。
起きているときならまだしも、眠ってしまえば自覚も規制もあったものではない、目をこすり、唇を拭い、鼻の孔に指を突っ込み、首筋をばりばりやっていたりする。
かつて、これほど「手」を意識したことがあるだろうか。ロダンだったか高村光太郎だったかの彫刻で、しげしげと眺めて以来ではあるまいか。足フェチの気味は認めるけれど、手フェチの傾向はどうやらなさそうだ。
昨日のニュースでは、紙幣貨幣、要するに人の手から手へ手渡される現金が姿を消すことになるかもしれない、コロナ禍はその契機となる可能性があると報じていた。
言われてみれば、お札や硬貨はウィルスの巣窟なんだろうなと思う。ヨーロッパではセキュリティの問題もあって、ずっと以前から現金よりカード支払が主流ではあったけれど、この傾向にいっそう拍車がかかりそうだ。
それどころか、コードを押すことさえ多くの人の指の触れるボタンをタッチしなくてはならないと、カードをかざすだけでコードを読み込めるシステムが、あっと言う間に普及してきている。
しかし‥‥と思う。真っ先に頭に浮かぶのは、屋外マルシェの木陰やパン屋の出口脇に座っている物乞いたち。そしてメトロの音楽家や大道芸人、繁華街の花売りたち。ちょっとしたときのチップだってなくなる。現金が通用しなくなったら、困る人びとや職業は数知れない。
‥‥30年前はじめて訪れたパリで印象に残ったのは、メトロや列車の乗降客が半自動の扉を自分で開ける姿だった。ハンドル式、ボタン式など違いはあっても、バスやトラムも同様、自分で乗降の意思を示さぬ限り扉は開閉しない。
大きなビルや店に入る場合でも同じ。通り抜けるだけで自然にドアが開閉する自動ドアというのは、まず見掛けなかった。なにかしらタッチするかノブを回すか、アクションを起こさぬ限り出入り口は作動しない。
何かするにあたって自分はこうする、ここで降りる、中に入る、それをはっきり身体に刻み込む、あるいは表明する。自分という身体を通して、他者、外部に働きかける。働きかけた結果としてのリアクションを受けとめる。
動物として本来的に持っていた当たり前の仕草であり、動作であり、反応であるけれど、それを感じ取れないと落ち着かない。あくまで直接的な身体感覚にこだわる、感受性を大切にする。と、ここまで来れば文化の問題だ。
こういう身体性を手放さぬ文化を好もしく感じた。安心できると感じた。手を伸ばし握りしめ、皮膚で感じ取り、確かめる。身の丈に合った、誰もが共有し得る感受性に立った認識。
これは信頼に値するものだと感じた。そうそうデタラメは起こり得ないだろう、と。人工頭脳、機械化とやらの果ての全自動、無機的に抽象化されていく流れに拮抗しうる‥‥。
COVID –19と名付けられたウィルスが人類に及ぼす影響は、今まだ始まったばかりだ。
感染が本格化するや、人と人の触れ合いは恐れられ、人間関係は分断された。それは劇的ですらあった。場合によっては、この余韻は長く尾をひくかもしれない。それでもこの分断はいずれ癒える。生き物としての人間はそれほどやわではない。
しかし一方で、文化を形作る感受性を切り裂いたものについて、同じ言い方をする自信は持てない。
接触の恐怖が契機となった文化の変容は、案外簡単に起こり得るのではないか。そして容易に馴染んでいくのではないか。なにしろ、SF的な好奇心と科学技術的な挑戦、商業主義的計算、経済効率がミックスされているのだから。
生き物としての人間と、社会的存在としての人間はもろくも引き裂かれていきかねない。
なるべく「手」を使わぬ文化。これは意外にあっさりやってくるのではないか。
‥‥あまり幸せな方向に向かわないと、誰もが予感していたとしても。このへんから、取り返しのつかない何かが壊れていくのではないかと危惧したとしても。
‥‥じっと手を見る。見れば見るほど奇妙な形をしている、奇妙な形に見えてくる。なんとも異様な器官と思えてくるのもまた事実ではある‥‥。さあて、とりあえず手を洗うとしよう。