よほどのファンか個人的な思い入れのある作者でない限り、一般的には「作品」あってはじめて「作家」だろう。美術であろうと文芸であろうとジャンルに関係なく。
「七人の侍」を観たから黒澤明という監督を知り、別の作品も観たくなる。「罪と罰」を読んでドストエフスキーの名を覚え、ロシア文学に誘い込まれたこともある。
それでも黒澤明やドストエフスキーの人となりや個人生活、趣味嗜好にいたるまで、積極的に興味を持つことはない。どんな容姿でどういう家庭環境に育ったのか、道楽は何でハメを外したことはないのかなど、まずはどうでもいい。たとえ耳に入ってくることがあっても、作品とは無関係のエピソードに他ならない。
目を閉じ、深く息をしながら無伴奏チェロ組曲に酔う。だからといってバッハの信仰や私生活に想いは及ばない。だいいち自慢ではないが(到底自慢にはならないが)バッハの生きた時代や社会を想うほどの知識を持たない。
‥‥まずはそんなところだけれど、いったん作者として認識するや、わけもなく「作品」の合間から顔を出す、作品の殻をかなぐり捨てて自己アピールを始める「作家」もいる。
作家の存在が善くも悪くも作品以上に輝いている、作家本人こそもっとも存在感を主張する「作品」そのものだと、作品全体を通して主張しているようなタイプとでも言えばいいだろうか。
このタイプの筆頭に掲げたいのがバルザックだ。
1799年に生まれ1850年に歿した作家は、多感な十数歳までに皇帝ナポレオンの栄光と失脚を目のあたりにし、復古王政から七月王政の時代、いわば19世紀前半の社会を描き出す歴史的な使命を負わされることになった‥‥。
彼の生きたフランス社会総体を万華鏡のように映し出そうという計画のもと、総タイトル「人間喜劇」に組み込まれる小説群はおよそ90篇、登場する人物は2500人に及ぶという。
ここに組み込まれない著作も多くあるから、膨大というか壮大というか、呆然とするばかりの作品群のうち、ほんの何作にしか目を通したことのない身とあっては、とてもバルザックの作品世界を論ずる資格はない。
充分承知しているし、そんなだいそれたことを考えてもいない。ただそのわずか何作かを読むにあたって、いつでもがっしりした体格に大きな頭、悪趣味の権化にして生命力の塊のような作者、ペンの力でナポレオンになろうと夢見た男が顔を出してきた、と報告したいのだ。
たとえば「人間喜劇」のうちでも、もっとも人気の高い登場人物にリュシアン・ド・リュバンプレがいる。彼は他の作品にも登場するが「幻滅」「娼婦の栄光と悲惨」の2作で主人公を演ずる、スタープレイヤーのひとりだ。
地方都市に、母親は貴族出身ながら町民の子として生まれたリュシアンは容姿端麗、眉目秀麗、文才に富み上昇志向隘れる青年として描かれる。貴族と平民、地方都市とパリ、はじめから二本の軸に切り裂かれている主人公は、行く先々で純愛と裏切り、成功と破綻に出会う。それこそ起伏に富んだドラマ展開に息を呑む。
文学とジャーナリズムの問題、当時の出版・新聞・印刷業界の裏事情から、演劇界、社交界の姿にいたるまで、1820年代復古王政時代の内幕が書き込まれ、それは現代にいたる社会システムの「核」のようにも感じられる。
その中で、美しく能力を持ちながら「矛盾」を孕むリュシアンは、バルザックの小説世界を愛する人びとにとって、きわめて魅力的なヒーローということになる。
言い換えれば、リュシアンに(好き嫌いはともかくとして)惹かれるかどうか、物語世界の花形として胸躍らせるかどうかは、バルザックの小説ファンか否かの試金石になるだろう。
そこで告白する、思い切って述べてしまうと‥‥いっこうにときめかない。もっと言えば退屈なのだ‥‥。
物語としてはおもしろい。描き込まれた背景世界は興味深い。主人公の負わされた境遇に発見があり、物語展開には溜め息が出る。それでも主人公は退屈なのだ。
これはリュシアンにとどまらない。バルザックの登場人物はおしなべて退屈だ。
なぜか。
‥‥つまるところ、バルザックは神だからだ。
ギリシア悲劇という世界がある。その世界では人間はすべて、あらかじめ定められ決められた「生」から脱け出ることは出来ない。宿命と呼ぶか運命と呼ぶか、とにかく人間はその枠組みから逃れられない存在なのだ。
神託として語られた未来、将来から脱け出ようと苦悩し苦悶し苦闘し、それでも結局、宿命、運命から脱することは出来ない。それが悲劇の悲劇たる所以となっている。
バルザックの小説の登場人物たちは、このギリシア悲劇の世界の住民たちと似ている。バルザックという神の定めた掟〔おきて〕を破ることは出来ず、神の命ずる範囲の内に生きるしかない。
バルザックの小説世界は、神の造り出した人物たちが神の想いのままに演ずる舞台だ。神によって造り出されながら、神の意図を超えてしまう、登場人物が作家の鼻面を引き回してしまうような逆転は起こらない。
ところで、物語の醍醐味はまさしくこの逆転にこそある。少なくとも小説の酔い心地は、書かれているうちに湧き出てくる、作家の打ち立てた「構想」からはみだそうとする力の働きによるのではないかと思う。
登場人物たちがひとりでに動き出し、作者にそう書かせてしまおうとする。物語世界の現実を担う登場人物と、構想という枠組みを覆い被せようとする作者の息づまる闘い‥‥これこそ傑作の条件ではないだろうか。
そう信ずる者にとって、バルザックはあまりに強力で、絶対的なものに映る。ペンのナポレオンは、彼の帝国に棲まう住民たちを完全支配下におかなければ気がすまないのかもしれない。
それだけのパワーとスケールの大きさを、この「神」は持っていたとも言える。それがバルザックのおもしろさでもある。彼本人について考えることは、作品世界を遊ぶ以上におもしろい。