鉛色の空、絶食、末期の眼

通り雨は熄〔や〕んだ。それでも相変わらず空は鉛色のまま、いつまた雨が落ちてきてもおかしくない。窓の大きさが何より取り柄のアトリエが、こんな日には裏目に出る。

腹の具合が悪く、絶食2日目。特に空腹感は覚えぬ代わりに、何もやる気になれず、ぼんやりソファに腰を降ろして窓の外を見ている。

家人の母親が体調を崩したと東京から連絡が入った。94歳という年齢を考えれば最悪の事態も視野に入れなくては、と家族揃って急遽一時帰国することにした。

3日後の直航便を確保して、旅の準備をととのえるため神経質になっている家人の顔色を窺いながら、こちらの腹具合もなんとかしなくてはならない。

人間どこで死期を迎えるか。‥‥パリに暮らし、すっかり住みついてしまった身として、折にふれ考える。今また、義母はそれを訴えているように感じる。

還暦を過ぎ、古稀の近づく年代ともなれば、どこに居住するかは同時にどこで死期を迎えるかの選択を意味する。少なくともそう受け止めて日々を送るべきだ。どんより重い、鈍色〔にびいろ〕の空を仰ぎながら、その覚悟が出来ているのか考え直してみる。

ふと「末期の眼」という言葉を、何年ぶりかで思い出す。絶食のせいか天候のせいか、思い出すのはろくなことではない。‥‥川端康成の随筆のタイトルであり、近代日本文学「主流派」の感受性の中枢をなしてきたとされるもの‥‥。

この辺の事情を、丸谷才一のエッセー集『別れの挨拶』中の「末期の眼と歩哨の眼」から引いておく。とても歯切れよくまとまっているから。

‥‥まず、川端は随筆に芥川龍之介の遺書の次の一節を引用する。

君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の目に映るからである。

これだけなら特にどうということもない。しかしこの引用を通して、川端は「健康に生活してゐる者の眼ではなくもうぢき死ぬ者の眼でこの世を見ることを理想とした」と丸谷センセイはまとめ、「読者はこの見方に感動することを要求された。これが日本純文学といふ制度の定めた美学であつた」とする。

さらに「その結果、病人こそ文学的人間像の典型であるみたいな風土が確立したらしい。かうして、体が健全で食欲が旺盛なのは俗悪で、非文学的で、命〔めい〕旦夕〔たんせき〕に迫つてゐるのが高級なことになり、いつも命旦夕に迫つてゐる文学者はなかなかゐないから、せめてそのふりをしようとみんなが懸命に心がけたのである」と踏み込む。

博覧強記の丸谷センセイには、しばしば鼻持ちならないペダンティスムに辟易とさせられるけれど、ここのくだりは胸にすとんと落ちる。逆にいえば、それだけ長い期間、知らず知らずに胸のつかえになっていたのかもしれない。

自然の美しいのは、美を美と感じ取れるのは末期の視線ゆえだ。‥‥こういう言われ方をすると、いかにも奥深い境地が指し示されているような気分になる。未熟者としては、ははあと這いつくばりたくなる。

それもタカだかワシだかミミズクだかフクロウだか、いずれも猛禽類の目をした芥川なり川端なりに言われると、金縛りに遭ったようにそう思い込みがちだ。そんなものかな、がいつの間にそうであるに違いないと思い込む。

これはまずい、とずっと感じてきた。

つい先日まで、受話器の向こうに伸びやかな声を聞き、他愛なくお喋りをした義母は今、没しつつある。その日没を感じつつ、迫り来る夕闇を覚えながら自らの行く末を想う。逝こうとしている、身近なひとを頭に浮かべながら、自分自身の今とこれからを考える。

窓の外、枯れ葉のほとんど散ってしまった木々は裸形の枝を、重い雲の垂れ込める空に溶け込ませている。

ひとは老い、ひとは没する。それはとても自然なことだ。

犯しがたく個人的な、厳粛な現実ではある。断念もあれば悔恨もある、希望もあれば感謝もある、覚悟もあれば悲憤もある。それらを含め、それでもとても自然で、あるべくしてある現実だ。

猛禽類の目をした文人たちが、死の観念に取り憑かれて特殊化しようとしたものとはだいぶ異なる、いや、まるきり異なる。異なると断言しながら、猛禽類が鳥目〔とりめ〕なのかどうかまでは知らないが、視線に歪みをきたしていることは確信できる。

歪んだ視線の裏側に、まず救いがたいエリート意識、選民意識が滲み出ている。自らの感受性という根拠のない高みに立って、猛禽類の目に映るわれわれは地上を蠢く小動物、さしずめ彼らの餌食とでもみなされているのだろうか。

死ほど個人的でありながら、平等に開かれているものはない。それを自己の絶対化へと高める。死の観念をもてあそび私物化する。この閉鎖的な自意識はどこから来るのだろう。

丸谷センセイの指摘するように、これが日本純文学という制度の定めた美学であるとするなら、その種の「美」からはなるべく遠くに身を置きたい。

閉鎖的な情緒の共同体からは、可能な限り離れていたい。それが当面考えられる生活の場であり、死期を迎える場でもある。‥‥今、没しようとしている親しいひとに、窓の向こうを眺めながらそう話しかける。

鉛色の空からは、霧のように細かな雨がまた降り始めている。

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