
中国最古の文字、現在もこうして使われる漢字の先祖にあたる甲骨文字は、亀の甲羅や獣骨に刻まれたところからそう呼ばれるようになったそうだ。
青銅製の器具を用いて刻まれたようだから、甲羅や獣骨に青銅器を使って彫り込む、これが東アジア文化圏の「筆記」の祖型ということになる。
メソポタミア文明で有名な楔形文字の描かれた粘土板は、博物館などで幾度か目にしたが、植物のアシで作ったペン先のようなもので刻みつけられた。つまり粘土を捏ねた板とアシが筆記具だった。
‥‥木簡、パピルス、羊皮紙、紙‥‥。墨、インク、筆、羽根ペン、鉛筆、万年筆‥‥。
文字を考え出し、記録する。取り決めごと、契約事項はもちろん、見聞した出来事や思考した内容にいたるまで。
確認のため、伝達のため、思考のため、記録のため。いかなる欲求に取り憑かれたと言うべきか‥‥歴史と社会はこうして作られていく。人間の業〔ごう〕と言ってしまえば、そんなものかもしれない。
こんなことをあらためて感じるのは、サイトまで立ち上げて駄文を撒き散らしている、自分自身の所業をつくづく思い返してのことだ。思い起こせば、形こそ変われど小学生の頃から同じことの繰り返しだ。
コクヨの原稿用紙に三菱鉛筆で記し、ホッチキスで留めたところから始まった。やがて鉄筆でガリを切るようになり、謄写版にインクたっぷりのローラーでわら半紙に印刷し袋とじした。手はもちろん、新調したばかりのセーターをインクでどろどろにしたこともある。
少し仲間うちでお金を貯めるようになるとタイプ印刷を注文した。活字印刷は遠い憧れで‥‥挙げ句に出版社に勤めて。われながら笑ってしまうほど首尾一貫している。
と、いくぶん大袈裟に人類史、個人史を概観してきて、ここからが本稿のテーマとなる。
‥‥ずばり、筆記具の特徴と使用勝手の良さ、経済性などの諸条件によって、記される内容も形式も大きく変わり、限定、規定されるということ。
亀の甲羅を日記帳がわりに使っていた人物はいただろうか。古代中国の皇帝にもしそんなことをしたのがいれば、その贅沢と手間たるや、毎日北極海の氷山を削り取っては沸かし、黄金風呂で入浴するのに匹敵する壮挙、あるいは愚挙ではあるまいか。
粘土板に長編推理小説を記したら、アガサ・クリスティを保管するだけで、正倉院くらいの施設が必要になるかもしれない。
中国で発明された画期的な「紙」は貴重なもので、その製造法が伝わってからも、短歌三十一文字の文芸がジャンルとして主流であったのは、筆記の技術と経済性に負う要素も否定できないだろう。
枕草子や源氏物語などの王朝文学や方丈記、徒然草にしたところで、文字数から言えば夏目漱石や吉川英治の比ではない。まして書写されて流布されていたのだから、「紙」の消費量など知れている。
江戸時代の西鶴や門左衛門、芭蕉の奥の細道、秋成の雨月物語だって、谷崎潤一郎や大江健三郎を考えれば、これまた文字数にしてそれほどのものではない。
硯〔すずり〕に向かって墨を擦り、筆に含ませ和紙にさらさらと言ったところで、身体的、技術的にそれほど文字数をかせげるものではない。
書きたい欲求があるから書いてきた。歴史はその欲求の存在を裏書きしているし、とりわけ文字表現にこだわる文芸、物書きにとってシンプルな真実ではある。
それでも少し見方を変えれば、書きたいことを書ける形で必死にまとめあげてきた歴史だとも言える。
古来文芸ジャンルにはさまざまあるけれど、実はこのジャンルというもの、筆記技術と経済性によって大きく規定されてきた側面も忘れてはならない。
書きとめうる技術が書きたいこと、表現形式を、意識無意識問わず決定づけてきた側面は否定できない。
こうした流れを考えると、たとえば小説というジャンルがいかに近代的な産物であるか理解できる。‥‥活版印刷と製紙業が事業として成り立ち、識字率が高まって読者が増大、出版業が生まれたからこそ受け入れられ、文芸世界を牽引するまでになった。
そして今。パソコンで文章を叩き、スマホで文章を読む人びとのパーセンテージが増えている。‥‥筆記技術、筆記環境はあらたな一ページを開くこととなった。
だから新しい文芸ジャンルが生まれるのかどうか、それはなんとも言えない。可能性としてはあるだろう、と現在では述べておくにとどまる。
ただ文章の書き方、読ませ方は明らかに変わった。サイトを立ち上げることで分かったのはこの一点に他ならない、と断言してもいい。
何が起こり、起ころうとしているのか。変化の渦中で、いまだ分析すべき時期ではないし、そもそも答えを出すのは個人的な能力を超えた問題だ。
新技術と筆記、読書環境を踏まえつつ、語りたいこと伝えたいことで妥協することなく。‥‥そう言い聞かせながらつづけていくしかないと覚悟している。
‥‥と、つづけてきて、しかし、この記事の文章は冗漫で長過ぎる、とはたと気づく。切れがない。驚きがない。出会いがしらに腰を抜かすような冴えがない。サイトの記事にふさわしいとは言いがたい。
やっとそれが分かってきた。サイトの記事と、あくまで縦書きでつづりたい文章の作法は違う。当面そのあたりで試行錯誤をつづけていくしかないのだろう。