トランペッター沖至:パリの日本人

こういう時って嬉しいね。‥‥ワイングラスをテーブルに置くと沖さんは言い、最高だね、とまことさんも相槌を打つ。

ベルヴィルの坂に面したカフェテラスでグラスを傾ける。透明な陽射しが眩しい。眩しい陽射しに、邪気のない笑いがこぼれる。まことさんのよく知るタイ料理屋で香り豊かな昼食をゆっくり摂って、そのまま何軒かハシゴしてだらだら飲みつづけている。

この街の賑わいを何にたとえればいいだろう。チュニジアを中心にした北アフリカ系、中国を中心にした東南アジア系の店が多く軒を並べ、人種のるつぼ、混ざり合い溶け合いながら大きな雑踏を形成している。パリの内でも独特の活気を呈している。

‥‥1960年代後期、モダンジャズに目覚めた高校生は、雑誌「スウィングジャーナル」をぱらぱら眺めるのが月一度の習慣だった。ミュージシャンの演奏風景の写真が圧巻だった。レイアウトが洒落ていた。植草甚一のエッセイに出会い、油井正一でジャズの歴史を学んだ。

その中に日本のジャズマンの人気投票コーナーがあって、トランペット部門のトップにいつも「沖至」の名があった。貯めた小遣いでレコードを買うのが精一杯、それもバロック、ベートーヴェン、シャンソン、ビートルズと迷い迷い手にするのが常だったから、日本のジャズにまで手はまわらなかったけれど、この印象的な名前だけは脳裡に刻まれた。

それがこうして甲羅を干しながら街の雑踏を眺め、とりとめのないお喋りに興じている。ジャズドラマーにして元パリ情報紙編集長、単なる料理愛好家の域を越えた料理本で根強いファンを持つ多才なまことさんが、さまざまな出会いの場をセットしたり、仕掛けたりするのを好む、そのお陰であることは言うまでもない。

それぞれが歳を重ね、それでも老け込まぬうちに、パリという街で知り合えたからこそ持つことの出来た珠玉のひとときであることは、さらに付け加えるまでもない。

「どうしてパリだったんですか」‥‥海外で少し修業をと考えたときには、もちろん本場ニューヨークへと思うよね。でも当時すでにニューヨークのジャズは下降線でね、喇叭を吹かせてくれるところが見つからなかった、これからはベルリンかパリだっていうんでね。

でもそれはホントだったよ。次々に大物がやってくる。サンジェルマンデプレのクラブでは、次々、伝説的なのと共演できた。‥‥マイルス・デイヴィスとやったときには、歌手のジュリエット・グレコが客席の隅でじっと見ている。恋人同士なんだなとすぐに分かった。

屈託ない笑顔を見ているうちに「沖さんのこと、記事にしていいですか」と自然に口をついて出てくる。‥‥ああいいよ。何かあったらウィキペディアの項目を見てよ。☓☓くんがまとめてくれたから間違いないと思うよ。ぼくに聞いてもあやふやだから。

神戸に生まれ育った沖さんは、子どもの頃から耳にしていたデキシーランドジャズのブラスバンドに加わった。高校のクラブから大学のサークル、そしてプロへ。ビバップからモダンジャズへと移行していき、それも次第に尖端へせり出し、遂にはフリージャズの旗手と呼ばれるまでになる。

いわば、誕生からさまざまなスタイルの変遷を遂げてきたジャズの歴史全体を個人的に体験し、刻みつけてきた稀有な存在というわけだ。

「沖さんが日本を離れるとき、頭脳の海外流出と朝日新聞の天声人語に書かれたんですってね」‥‥そうらしいね。特に読んだ覚えはないんだけど、読んだと言うひとは何人かいるからね。とグラスを干し、‥‥いい気持ちだね、もう一杯やるか、それとも場所替えようか。

もう一杯ここでやると、そろそろぼくの好きな店が開く。取り揃えた酒精のクォリティが高いからそこで締める、というのがいいんじゃないかな。まことさんはそう言うと、沖さんはね、日本だけじゃなく70年代後半パリのジャズシーンを引っ張っていたんだよ、とつづけた。

こちらじゃぱったり儲からなくなったけどね。日本ではとにかく忙しくて。喇叭吹くとお座敷かかって、クスリをやっちゃあなんとか眠るって毎日。いや、合法ドラッグだよ、医者が処方してくれる。神経が立ってとにかく眠らないと、といつも考えてた。‥‥これじゃ擦り切れる。どんどん下手になっていくのがわかるのよ、それで海外修業に出ようってね。

何度目かの乾杯をしてまともに顔を見合うと、帽子のツバの陰で光る目の睫毛が長いことを発見する。ととのった顔立ちに、育ちの良さそうな甘さ。若い頃に一度、頼まれて映画に出演したというのも頷ける。二度と出なかったのはもっと頷ける‥‥。

過小に評価されるのはもちろんイヤだけれど、過大に評価されるのもイヤだよね。だって「今」しかないわけでしょ、常に現在、それがベストであるようにやる、それだけなんだ。‥‥毎日練習してますよ。100歳くらいまでは、少しずつ上手くなれる気がするんでね。

評価によって固定化され、縛り付けられることは耐えられない。絶えずそこから抜け出る。不動という名の停滞を拒否して、動きつづける。絶えざる変化を選ぶ。うまそうにグラスを傾けながら、そういうメッセージを発したのだと受けとめる。

言わんとすることは理解できる。理解できたつもりでいる。しかし、それを言い通し実践してきた人間はそうそういるものではない。1941年に生まれ、60年代からは尖端を走りつづけてきた表現者が、笑いながら言うのだ。パリ北東部の不思議な賑わいを背景にして。

‥‥凄みを覚える。柔和な好々爺の顔をした鬼、それがトランペッター沖至なのだとつくづく思う。こういう鬼と飲むとき、カフェの安ワインも極上の香りを放って喉をすべり落ちるとも感じながら。

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