アズナブールのシャンソン、プッチーニのオペラを例に、ボエームについて書いた。今回は、それを便宜上「芸術ボエーム」といくぶん限定的に呼ぶことにする。
同じ「ボエーム」という言葉でありながら、だいぶ趣を異にする用例があるからだ。
同時代の躍動する現実として19世紀フランス社会を注視、考察の対象としたカール・マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』に目を走らせていて、次のような文章にぶつかった。少し長くなるが引用する。
怪しげな生業の、貴族の出だが怪しげな素性の頭のおかしい放蕩者のほかに、また落ちぶれて冒険生活をしているブルジョワジーの子弟のほかに、
と始まり、
無宿者、兵隊くずれ、前科者、島抜け、詐欺師、ペテン師、ラッツァローニ、すり、手品師、博徒、女衒、女郎屋の亭主、荷かつぎ人夫、日雇い人夫[文士]、手回しオルガン弾き、屑屋、刃物研ぎ師、鋳掛け屋、乞食、
と列挙され、
要するに、フランス人たちがラ・ボエームと呼ぶ、あらゆる、不明確な、混乱した、右往左往する群衆、こうした自分と似通った分子で、ボナパルトは、一二月一〇会の元をつくった。(横張誠・訳)
と、つづく。ここに現れるボナパルトとは、伯父の名声を背に皇帝に昇りつめることになるナポレオン3世のこと。彼の本来的な支持層、勢力の源泉を示しているのがこの文章だ。
記述内容の妥当性を検討するのがこの記事のテーマではないから、それは括弧に入れて‥‥「要するに、フランス人たちがラ・ボエームと呼ぶ」者たちについて、‥‥そこを問題にしたいのだ。
1852年の著作だから、19世紀半ばにはすでにフランスでラ・ボエームという観念は一般化していた、とあらためて確認できる。ここから始めよう。
ボエームの出現する時代背景を含めて、前回さらりと触れたつもりだが、こうして今回、無宿者、兵隊くずれ‥‥一語ずつたどると、「芸術ボエーム」の放つほろ苦くも甘い香りとの落差に、愕然とさせられる。
愕然としながら、それでも、ここに列挙された者たちを眺めていくと、ラッツァローニなど意味の分からぬものはあるにしても、なんとなくイメージの焦点は結ばれてくる‥‥。
刃物研ぎ師や鋳掛け屋。一瞬首をかしげるものも、さすらう職人、定住せずに村から村へ、町から町を渡り歩く人びとを象徴していると理解してよさそうだ。
カッコ付きで文士とあるのは、売文渡世の情報屋、ゴシップ記者の類、保身と利益のためなら、いくらでも餌を投げ与えてくれる者のために文章をこねくりまわす者の意だろう。
‥‥ひと言でいえば、はみ出し者、あふれ者。もう少し付け加えれば、自分では何もまともに作り出すことなく、作り出されたものをだましたり、かすめたり、舌先三寸でちょろまかしたり、ほどこされたりする輩#やから#。
マルクスが他の箇所でルンペンプロレタリアートと呼ぶ者たちと、ほとんど重なり合うように思われる。
彼らは当然どこに属しているわけでもなく、拠って立つ場のない風来坊、いまだ何者でもない者たち。‥‥と見てくると、むしろこの一群の上澄みのような存在として「芸術ボエーム」を考えた方がいいのではないかと思えてくる。
もう一度整理してみよう。
18世紀19世紀の西欧社会から、非可逆的な歴史の流れが全世界にひろがる。その流れを一般的には「近代化」と呼ぶ。それぞれの地域の、それぞれの文化によるバリエーションを生みながら、全世界を覆い尽くすことになる激流。
激流に伴う変動、変化。こういう歴史的波動にはいつでもふたつの側面のあることを忘れてはならない。光が投げかけられれば影が生じ、束縛からの解放はあらたな罠の出現する契機ともなる。
幸運の周囲には累々と不運が横たわり、飢えからの脱出は新しい支配秩序に組み込まれることを意味した。輝かしい生の謳歌は、野垂れ死にする自由の裏返しに他ならない。
産業革命、生産様式の転換で、封建制度はゆるみ、身分制は溶け始める。閉鎖的な村落共同体の崩れる一方、都市は沸騰していく。掟は破られ道徳は打ち捨てられ、神々は死を迎える。
‥‥歯止めのきかぬ歴史の流れ。近代化。もう、このへんになってくると完全にマルクスの引用から離れ、ボエームは近代化の申し子とさえ呼びたくなってくる。
職業や立場とは無関係に、近代化のなかで、ひとは誰でも多かれ少なかれボエームである、と。
‥‥何故なら経済、政治をはじめ教育、文化、情報、知的な営みにいたるまで互いに越境し合い、流動化し、人びとは自由であり、自由でしかなく、意識の差はあれ「流民」化していたのだから。
額に汗して天を仰ぐ農民であろうと飲んだくれの労働者であろうと、わけもなく居丈高な役人であろうと、貧血気味の哲学者であろうと虚栄心に衝き動かされた資本家であろうと。
確実さをひん剝かれ、砂粒のような個人が揺らめく。揺らめきを楽しめる者と、不安にさいなまれる者と。支配と反抗と隷従が絡み合う。流動化は今日に及んで、いっそう加速していくようにも映る。
‥‥われわれはどこへ向かおうとしているのか。
この戸惑い、この戸惑いこそボエームの証しだと感じる。