普段なにげなく使っている基本的な言葉でも、いやもしかしたら基本的なものであればあるほど、あらためて考え直してみると思いがけない閃めきや発見につながることがある。
たとえば「まち(町)」と「むら(村)」。
ちょっと教科書風なら、「まち」「むら」は「都市」「村落」と表記される。そして両者を区別するのは人口の集中具合、主要な産業の違い、およそこの2点で説明されるケースが多い。
都市は人口密度が高く家屋が密集、主に第二次産業、第三次産業従事者が多いのに対して、村落の人口密度は都市ほど高くはなく、第一次産業に従事する者の割合が高い。‥‥といった具合。
胸はずむ説明を求める方が無理なのは重々承知していても、あまりに無味乾燥。あまりに味気ない。
そこで言葉いじり、言葉遊びをしてみる。もう少しカッコよく言えば自分の言葉としてどれだけ表現できるか、大袈裟に言えば定義できるかを考える。独自の個人的な辞書を作るつもりで。これがなかなかおもしろい。
こんなのはいかがだろう。
‥‥「むら」は知人・縁者の共同体、「まち」は他人同士の共同体。どこへ行っても知り合い、縁続きのネットワークで出来ているのが「むら」で、隣は何をする人ぞ、が「まち」。
厳密な正確さはこの際、無視する。肝腎なのはここからいかに発想が飛べるか、それをこの遊びの醍醐味と心得たい。
この「定義」に従えば、地縁・血縁で成り立つ「むら」は人類史のかなり古い段階から存在していたものになる。どこまでさかのぼれるか。もしかしたら人類の発生にまでさかのぼって、家族集団との関連で考える必要だってあるかもしれない。
それに対して、「まち」はかなり新しい。文字を持って史料の残るようになってはじめて生まれた可能性だってあるくらいだ。となると「むら」は考古学の対象となるのに対して「まち」は歴史学の対象と区別する見方だって出てくる。
他人のうちに身を置く。他人と共に暮らす。他人と混ざり合って生活する。考えても欲しい。実は、それは大変なストレスを意味している‥‥。ある程度人間という生き物の能力的な蓄積、行動半径の広がりを考えなければ、とてもじゃないがこんなことは起きてこない。
それはそうだろう。だいいち何を言っているのかよく分からない、何を食っているのかも分からない。雑穀主体に果物を食う者は、ニシキヘビはじめ爬虫類の肉を食らう習慣の者に出会えば、慣れるのには時間がかかるだろう。
ベールだかなんだか身体から顔からやたら覆う人びとも入れば、髪を剃り上げ全身入れ墨している連中もいる。左手を決して使わぬ人たち、歯を全部抜く習慣のある人びと、神のお告げとあれば迷わず我が子を生け贄に供する者‥‥。
多種多様な者が集まり、お互いを最低限殺し合わない、傷つけ合わない、いきなり暴力は振るわない。互いを認め合う。‥‥この最低限のルールのない限り「まち」は成り立たないのだ。
約束ごとは、文字とか記録とかとして定着する。そのとき「まち」は歴史として刻印されたことになる。
そんな思いまでして、どうして人びとは集い「まち」を作るのか。‥‥それは、その方がメリットがあるからだ。たとえば造船技術に長けた一族郎党と、漁業に秀でたグループと食物の貯蔵技術を持つ集団がルールを守り合えば、互いに利益を得られる。
周囲の「むら」で生産された農産物を集め「まち」に運ぶ業者、販売する商人。それを加工して販売する製造者も出てくる。「まち」の鍛冶屋の作り出す農機具が「むら」に運びこまれれば、さらに生産力はアップする。
こうして分業が発達すれば製品の品質は高まり、流通する量は増え、今まで他人であった人たちの輪はひろがる。さらなる分業、専門化が進む。かつて考えられぬくらいの規模と勢いで、「むら」から「まち」へ他人が集まってくる。
経済的、政治的な側面ばかりではない。病に対する抵抗力の強い家系と、筋肉の発達した家系が交わることによって‥‥というような、純粋に遺伝生物学的なメリットだって、意識せぬうちDNAは計算しているかもしれない。
他人。異なる文化、異質な環境のうちに育った者に、不安とうらはらの魅力を覚える遺伝子が組み込まれているのは、生命として自然なことのような気がする。
小学校に入ったばかりの頃、同級になった子に誘われ家に遊びに行った。「姉ちゃん風呂に入ってるから、覗いてみる?」唐突な誘いに、驚きと同時に身体の芯を貫く誘惑を覚えた。
母親や妹と当たり前に入浴していた年齢にしてこうなのだ。欲望の対象となる妖しさとして他者は現われる。‥‥こうしてひとは「まち」を作り、「まち」に惹きつけられる。
それにしても、あのとき同級生の少年はどういうつもりで、そんな誘いかけをしたのだろう。これもまた「まち」を形作る多様な心理のひとつなのだろうか。欲望する者を観察する欲望、欲望する者の欲望を知ることで支配する欲望とでもいうような‥‥。
言葉遊びは際限もなくつづいていく。