前立腺肥大を切る

ぼくなら迷わず切りますね。‥‥日本人ジェネラル医はあっさり言うと、メガネをずりあげながらからから笑った。

パリ郊外の閑静な住宅地に、日本人のジェネラル医と通訳スタッフの常駐している、特別な総合病院がある。まず、この医師に症状を説明すると彼が必要に応じて検査を指示したり専門医を指名紹介してくれ、専門医の診断を通訳付きで受け、その結果をもって再び相談するというシステム。

95グラムもあったんでしょう、4年前まで東京の大学病院に勤めてましたが、そこまで育ったのはお目にかかりませんでしたよ。よくクルミくらいの大きさって説明されますけれど、だいたい二十数グラムといったところでしょう。

30グラムを超えると肥大、ま、もちろん大体の目安です。それが95グラムですからね、ずいぶんいろいろ症状があるんじゃないですか。

なにぶん我慢強い性分でして。臆病と言い直した方がいいかもしれませんけれど。

ハハハ‥‥それでムッシューDは‥‥。

70グラムくらいがひとつのメドで、それ以下なら内視鏡を用いた処置が可能だけれど、それ以上になると手術時間の長さ、予後など考慮して開腹手術になると。

そうでしょうね。それが妥当だと思います。具体的な手術の方針の提案はありましたか。

ええ、通訳の方が細かに聞いてくださって、丁寧に図を書きながら説明してくれました。膀胱の下部を少し切開し、そのアナから器具を挿入して前立腺の肥大部分を削り取るんだそうです。

オレンジを考えてみてください、とおっしゃいました。‥‥肥大部分は中身の果肉に当たる部分ですから、ここを削る。一方、前立腺の機能は皮の部分に集中していますから、ここは無傷に残す。膀胱、尿道から入れた器具で内側から果肉をくりぬく、そういうイメージですね。

膀胱からですか。‥‥それは初めて聞きました。大きさからいって大事を取ろうというのでしょう。はっきり言って、こちらの泌尿器関係の医療水準はきわめて高いですよ。

帰りがけに握手をしたとき、久々の大物だな、と笑いかけてくれたそうです。何も分からずメルシーばかり繰り返していましたけれど、通訳の方が廊下で教えてくれました。

ムッシューDの印象はいかがでした。

思慮深そうで信頼感を与える方です。ゆっくりこちらの話を聞いて、理解できるまで説明してくれました。背凭れのある椅子に座って患者と医師が話し合う、ドアのところまで送ってくれて握手を交わす、というのは新鮮でした。

こちらでは市民同士ですからね、それが当たり前です。ぼくも驚くこと、学ぶこと大ですよ。ムッシューDなら最良でしょう。好印象を持たれたという相性も大切です。入院は一週間の予定とありますね。‥‥問題は費用と、文化の相違でしょうね。

フランスの国民保険に加入していないし、持病だから海外旅行保険の対象からも外れる。全額自己負担。それも特別な病院ときているから、一般よりかなり高額。いずれにせよ、退職後の不安定な身の上とあってはかなりの痛手であること間違いない。

看護婦さんとの会話はどうなるんでしょう。

通訳スタッフは診察までで精一杯で、看護のときまでは無理です。でも看護スタッフも皆優秀ですし、顔をしかめれば痛いんだろうと察してくれます、唸っても悲鳴をあげてもいい、とにかくゼスチャーたっぷりに表現することですね。

日本に帰られて手術を受けられるなら紹介状を書きますよ。有名どころをご紹介できます。ただし、ぼくが紹介した医師が執刀するかどうかは保障できません。日本の大学病院はご存知のように教育機関でもありますから、後輩の若手に経験を積ませるということもある。まあよく考えてみてください。

もう20年も前の話になりますが、前立腺肥大の手術を受けた先輩が院内感染で亡くなりました。そういう危険はないのですか。

それは日本での話ですか。

そうです。

ちょっと考えられないな。‥‥それでずっと手術をせずに耐えていらしたんですか。

まあ、それもありますね。

いくら生命にかかわらないと言っても、そりゃ手術ですから何も起こらないと断言はできません。しかし20年前と言っても、そんな話は聞いたことないな。

聞いたことないと言われても現実のこと、実際に敬愛する知人を亡くしたのだ。明るみに出なかった事件が、そうそう知れるわけもないだろう。それともどれほど隠していても同業者にはなんとなく伝わっていくものなのか。

フランス暮らしが板につくにつれ、患者とフランクに話せるようになったと笑う彼にでも、そのへんまで突っ込む気にはなれない。

よく考えてみてください、と言われたところでどうしたものか。

‥‥身内の開業医にともかく相談してみることにする。札幌で開業する彼なら、専門は異なってもそうそう見当違いは言わないだろうし、フランスの医学事情を知らずとも医療一般論は聞けるだろう。

ははあ。‥‥受話器の向こうでしばらく口ごもり、いつになく言葉を選ぶように、それもデスマス調で話し始めた。

個人的な意見ということで言わせていただければ、ふたつの理由でフランスのその病院で手術を受けられることをおすすめします。

まず第一に日本の医療制度に根本的な不信感をお持ちですよね。そして執刀医に直感的に信頼できるものを感じた、それはいちばん大事なことです。ジェネラル医の方のおっしゃる通りです。

次に、それだけの手術を受けるとなると、退院後あるいはもっと時間が経ってからなにか問題の出てくる可能性があります。完治するまでは執刀医の手の届く範囲に身を置く、それが大原則ですね。

説得力あるな、と聞きながら自分の甘さのようなもの、肚の据わらなさをガツンと指摘された気になった。

フランスに暮らそうと決意した以上、基本的にこちらの流儀を受け入れるのが前提なのだ。その覚悟で住み着いたはずなのだ。

どうしてもダメという場合ならともかく、前立腺肥大の手術ごときでうじゃうじゃ言ってんじゃないよ。わが身内医師の諭すような口調に呼応して、身体の内奥から自らを叱りつける声が聞こえてきた。

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