表情筋をゆるめて

自分は差別されている、不当な扱いを受けている。‥‥そう感じる瞬間は誰にだってある。

認めてもらえない、受け入れられない、無視された。‥‥よくある、よくある。傷つくこともあれば、無力感にとらわれることもあれば、俄然闘争心の湧き起こってくることもある。

これが海外でとなると、生まれ育った背景や文化の持つ価値観が関係してくるから、もう少し複雑微妙な屈折が生じてきたりする。人種や宗教、風俗習慣を一緒くたに混ぜ合わせた、ちょっと厄介でネガティヴな感情‥‥。

フランス、それもパリとあれば、多種多様な文化と血統を引きずった人びとがごちゃまぜに暮らしているから、いろいろ問題だって起きる。しかし、明らかに過剰な反応ではないかと感じるケースの多いことも確かだ。

いかに自分は差別を受けてきたか話さないといられないタイプの方は、どこにでもいる。‥‥なるほど。と思うこともあるにはあるけれど、それ、差別に遭ったことになるのかな、と感じるケースも多い。

肉屋で並んでいて、無視されたことないの。

駅の窓口で舌打ちされたこと、あるでしょ。

花屋で赤いバラ注文したら「ない」って言ったくせに、フランス人のマダムには奥からいそいそ出してくるの。

‥‥そりゃそういうこともあるでしょうけれど、差別されたという実感は今のところないですね。

あんた鈍いのよ。

どちらかと言えば(言わなくても)鈍い方だと思う。それは認めるとして、肉屋で無視されたのは、ガラスケースの肉類や惣菜をゆっくり眺めて吟味していたから、肉屋のオヤジが後ろに並んだ客の相手を優先したというに過ぎないと思う。

窓口で舌打ちした駅員は、彼の言うことをさっぱり理解できないのにシビレを切らしたからだし、花屋の主人はあらかじめ予約していた客に、作っておいたブーケを出してきたに過ぎないだろう。

そりゃあ、イヤな気分になることもあればいたたまれない思いにかられることだってある。だけど、少し冷静になって考えれば分かる。少なくとも今までのところ差別意識から生じた問題ではなかった。これはパリジャンたちの名誉のために言っておきたい。

東京で生まれ暮らした者には信じられないほど、彼らはおおむね親切で陽気だ。だからと言ってべとつくわけではない。

重い荷物を持ってメトロの階段を降りていれば、さっと手伝い、さらりと去っていく。どんなにちゃらい兄さんだって妊婦やお年寄りがいれば、するっと席を譲る。それが自然でスマートなのだ。‥‥もっともあまりに外国人が多くなり、彼ら本来の美質もいつやら薄まりつつあるとの指摘もあることを加えておこう。

こちらには事情はともかく、この地に受け容れ住まわせていただいているという想いが基本にある。住まわせていただいている以上、最低限の礼儀があるとも思う。

そもそも彼らの価値観なり、文化なりに、関心と興味を抱いてやってきた。それだけで充分の敬意は抱いているつもりではあるけれど、完全に理解することはできないだろう。完全には理解できないだろうという前提で、理解する努力はつづけていく。

そしてみずからを開放すること。能面のように何を考えているか分からないのが、彼らにとってはいちばん気味悪く映る。

東洋の湿潤島国とここがもっとも違うのは、個人と社会の間に「世間」なる曖昧模糊とした装置のないことだ。言い換えれば、他者との関係とその構築がそっくりそのまま社会に反映されることになる。

何かやらかしたとして、謝罪するのは世間を騒がせたからではなく、他人同士で構成している社会のルールを犯したからなのだ。

「世間」を意識して萎縮自粛する必要などない。必要ないどころか、それは個人にとっても社会にとっても迷惑千万、不幸な事態でしかない。

だから、一歩外に出たらまずはにっこり笑おうと心がける。みずからを開き、共に生きる意思を示すために。

‥‥これがなかなかむつかしい。無表情なまま、ときおり眉間に皺寄せることで、「世間」に後ろ指さされぬよう耐えてきた者には。意味なく閉鎖的に生きてきた者には。

久しぶりに綺麗に晴れわたった公園を、フランス在住ン十年というマダムを含めて何人かでぶらつき、その足で寄ったカフェは、テラス席はもちろん店の奥まで客に溢れていた。店の大きさに比べて明らかに数の少ないギャルソンはてんてこ舞いで、いつまで経ってもテーブルにやって来ない。

喉の渇きを訴えていたマダムが不機嫌になるのが分かった。長い時間放っておかれ、われわれより明らかに後から来た客のテーブルへギャルソンが向かうのを目で追うと、マダムはすかさず「わたし達を無視しているのよ、東洋人だと思って」と言った。

やっとやって来たギャルソンに「忙しいね」、大変だね、という表情を込めて話しかけると、堰を切ったように、「そうなんだ、こんな広いスペースをひとりで担当している、信じられないよ」と泣きの入った愚痴をひとしきり語った後、にっこりウインクした。

無視もへったくれもない、ただ混乱していただけの話だ。

出掛ける前には、表情筋をゆるめて。表情筋の訓練を。

一歩外に出ることは他文化との、他者との出会いなのだ。

わかっちゃいるけど。‥‥むつかしい。

大人の男子たるものちゃらちゃらするもんじゃない。表情を変えず黙って重厚さを演ずるという美意識を「世間」に刷り込まれた、還暦過ぎの、すっかり表情筋のこわばったオヤジには。

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