シャンソンを習うことで、思いがけぬ出会いがあり視界はひらけ、世界はひろがる。
いつもとは別の何かに一歩足を踏み入れる。それだけで新たな風景が飛び込んでくる。閉じていた目蓋を開かされる。パリ在住のシャンソン研究家CNさんと知り合いになれたのもひとつの成果だった。
わが師マダム長坂のお宅で、一時帰国中のCNさんを囲んでの一席。集まった8名が、大きなテーブルを囲み‥‥と、この辺の記述がなんともデリケートになるのだけれど、8名のうち外見上の男性は5名、女性は3名だった。
ところで、そのうち異性として女性を意識している存在は筆者ただ一人、つまりジェンダーとしての男性はたった一人ということに、杯を重ねるうちに気がついた。
当方、決してアタマの硬い人間ではないつもりだ。それでもこれはかなり複雑な状況と言わざるを得ない。いくらなんでもバランスが悪い。ゲイ4人の会話の当意即妙、打てば響くような言葉の遣り取りにとてもついていけない。速射砲のようなお喋り、どだいテンポが違うのだ。
女性3名は呆気にとられ、唯一の「おとこ」は腹を抱えて笑っているしかない。ヘテロ、ヘテロと徹底的にからかわれ同情され‥‥精神貴族のホモに対してヘテロには奴隷根性がお似合いといった調子で、なんだか説得力を感じ始めている、それもそうかもしれないな、次第次第に妙な気分になってくる。
4人で「ロシュフォールの恋人たち」の唄と仕種、名場面の物真似をやってのけ、ジョルジュ・ブラッサンスの声帯模写をやり、映画俳優の品評会となる。
口髭を蓄えたおしゃれなCNさんは皮肉な笑みを浮かべ、「もういい加減こちらへいらっしゃい。オンナなんて下等動物はデリカシーを解さないから、歳取ると相手しているの辛いわよ。若いうちは我慢出来ても」。
これはあくまで彼の、それもアルコールがまわってからの発言。そのくせ何年も経ってこれほど鮮明に覚えているのは、内心ぎくりとするものがあったせいかもしれないなどと考えてみたりもするのだが、果たしていかがなものなのだろう(と目一杯、文末を曖昧なものにしておく)。
後年パリに住み着くことになったはよしとして、知人縁者とてない地でCNさんの存在は貴重だった。「残念ながら、あんたたちの考えているようなシャンソンをやっている場はもうないの。たまに、ちょっとしたところでほそぼそとって感じ」。
なんかみんな小綺麗で小器用にショウアップされて、ショウビジネスになってきちゃったのよね。内容のない詞をやたらいい声で歌いあげたり、ハーモニーつけたり、余計なサーヴィスしたり、集客力の大きさ狙いね。あたしたちの求めているものってオペラでもミュージカルでも、もちろんウエスタン・カーニヴァルでもないわけじゃない‥‥。
シャンソンって、もっと気持ち悪いものよ。いじけてたり、ひねくれてたり、いらいらしたり、ひりひりしたり、どろーんとしていたり、そんな内面がぽろっと出てきたりするから、ああって見えてくるものがある、分かるって気がする、じーんとくるの。それが魂、エスプリなんじゃない。
アラン・ルプレストが象徴的な気がする。もう少し早く生まれていればレオ・フェレやブラッサンスと並んで、その後継者として、もっとビッグネームとして活躍出来た人よ。素晴らしい才能の持ち主だった。
もちろん認められはしていたけれど、もう時代が変わっていてね、彼の活躍を求める時代じゃなくなっていたように思う。才能に比べて活動出来る場はうんと限られていたのよ。片隅に追いやられてね。脳腫瘍やら癌やら患って、最終的には自分で命を断ったの。2011年のこと。
‥‥そんな話を聞かせてくれながら、時折これはというコンサートがあると誘ってくれる。20人も入ればいっぱいになるような、地下のカーヴを利用した小劇場だったり、パリ郊外のアソシエーションの運営する庶民的なスペースだったりした。
伴奏はピアノだけ、またはアコーデオンだけ、というパターンが多かった。口惜しいことに歌詞の意味は分からない。それでも呼吸が聞こえてきた。呼吸、その延長でひとは唄を歌う。それだけは理解できた気がする。息がたかぶり、息があえぎ、大きく息をし、息を押し殺すとき、ひとは歌わずにいられないということを。
現実の、ひと棲むパリを感じ取る契機を作ってくれたのはCNさんだった。辛辣な口調で誰彼構わず笑いの対象にする彼が、政治家として唯一肯定的に評価していたのは、当時のパリ市長ドラノエ氏だった。
パートナーが頑固な社会党支持者だと愚痴り、今や社会党なんてお坊ちゃま政党よ、とこきおろしていたのが、どうして社会党市長にこれほど肩入れするのだろうと聞いていると、市民生活本位のスケールの大きな政策を実施しただけではなく、ゲイであることをいちはやくカミングアウトするだけの勇気を持った政治家だったからだと分かった。
今でこそホモセクシュアルは当たり前に受け入れられているが、宗教的な価値観だけでなく、エイズと関連づけられ、陰に陽に差別された時代もあった。実際に周囲の仲間の幾人もが病いに倒れもした。
そういう時代をCNさんは生きてきた。
ゲイとはゲイであることを絶えず意識し、向き合わねばならぬ人びとだった。ヘテロのわれわれがヘテロであることなど意識せず、のほほんとヘテロであったとき、ゲイはゲイであることでゲイだった。
そういう時代を生き延びてきたCNさんの呼吸、息遣い、エスプリが彼のシャンソンだった。ひとの数だけシャンソンはある、そんなことを気づかせてくれたのも彼だった。