除夜の鐘が鳴れば年は明け、おせち料理に初詣で、年賀状。新年会を繰り返すうちに観梅の候となり、バレンタインデー。受験シーズンはひな祭りと重なり、啓蟄で本格的な春と語っているうちに桜の開花‥‥。
それを味わう。楽しむ。味わい、楽しみまではいかなくとも少なくとも情報を共有し、確認する。ひとつの文化に生き、暮らすとはそういうことだ。たとえ海外に居住しようと、紅白歌合戦を話題に雑煮を食う。春分を過ぎれば花見を思い、新年度の始まりを意識するというなら同じ文化共同性の内にある。
年中行事を生きる。
年中行事こそ文化の同一性。同一性が大袈裟なら一体感、類似性、親近性を保障する。
四季の移り変わりのめざましい東アジアモンスーン地帯では、年中行事はとりわけ四季折々の自然の変化と密接な関係を持つ。衣食住、文化全般にわたって、その特色は生き、洗練される。
ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ
奥山にもみぢふみわけなく鹿の声きくときぞ秋はかなしき
和歌などとは無縁な日々をおくる者でも、百人一首の代表的なものを思い起こすだけで、穏やかな春の陽射しとうらはらに散り急ぐ桜、紅葉の鮮やかさゆえに浮き彫りにされる蕭蕭とした季節の訪れなど、おのずと感じ入る。
時代が下り、季語を含むことで短詩の極北にまで行き着いた俳句の世界となると、さらに削ぎ落とされた言葉が響く。その喚起力の豊かさは、言葉の持つ文化的了解事項、共同観念の上にそびえる楼閣だ。
そこまで高度な洗練を考えなくともいい。子どもたちの絵日記に描かれた光景でも。赤鬼のお面をかぶった父親めがけて豆を投げつけた幼稚園の節分、去りゆく夏を惜しむように川面に無数の灯の揺れる精霊流し、豊作を祝い鎮守の杜で繰り広げられる村祭り‥‥。
風土と年中行事に支えられた文化空間とでもいうのか、その場に共に在る、くつろぎとあたたかみに溶け込んでいく心地よさがある。風呂に肩までつかり、両足を伸ばしていくような‥‥。
しかし。
いや、だからこそと言うべきなのか。
息苦しくもある。
くつろぎを共有し、風土を共有し、想いを共有し、郷土料理に舌鼓を打ち、地酒に酔い、しみじみと互いを認め、安心し、それを心地よいと見なす。共に共に共に‥‥それが息苦しい。暑苦しい。
多かれ少なかれ、誰もが感じているところではあるまいか。何を贅沢な、それを言っちゃあおしまいよ、とは思わない。言ってしまった方が断然いいと思う。
振り返れば、子どもの頃から兆候はあった。
たとえば氏神の祭礼。東京の住宅地のことだから、さして広くも大きくもない、形ばかりの神社だった。夕闇の境内を埋める露店を覗くまではうきうきしていながら、生臭い水の中で弱り切っている金魚を掬うのはいやだった。神輿をかつぐ人びとの上気した顔を見るのはもっといやだった。
12月24日、満員電車から降りた背広姿の勤め人たちが、駅前のケーキ屋の店先に山積みされたデコレーションケーキを買っては家路を急ぐ。ローストチキンと発泡酒の用意された食卓が待っているのだろうか。そう考えるだけで目をそらしてしまう。
東京でも開花宣言が出され‥‥いくぶんテンションの高い女性アナウンサーの声がテレヴィの画面から流れてくる。これもマニュアル通りなのだろう。ここしばらく桜前線北上の話題を聞かされるのか、もううんざり、疲労感にとらわれている。
‥‥年中行事は罠なのだ。循環する季節、循環する暦、そこに張り巡らされた巧妙な罠なのだ。罠の中で人は笑い、歌い、酔い、牙は抜かれ、老いていく。
年中行事、文化的共同性のあたたかみにくるまれながら、一方でこれは首を締めつけ、生気を奪う真綿だと感じている。
本当に大切な何かから目を逸らさせるためのまやかし。肝腎なこと、追い求めるべき何物かを覆い隠す仕掛け。飛び立つ力、飛翔する力を奪い、抑え込み、とどめおく装置‥‥。
何が肝腎で、何が本当なのかは分からない。どこへ向け、何に対して飛び立つべきなのかも分からない。余計なことは考えなくていい、はみ出すことの危険、無意味さから身を守る防波堤。共同体の維持、習慣の連続、蓄えられてきた知恵のぬくもり。
こうして、われわれは年中行事に支えられた文化共同性の周辺を出たり入ったり、窺いさまよう。‥‥時に居場所を見出したかのようにほっと慰められ、時に息苦しさと暑苦しさに耐えかねソッポを向いて。
百人一首に結晶している感受性を掲げた以上、牧水の現代短歌を持ち出すことで、個人的な想いの告白としておくことにする。
白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
‥‥青、青、青、空と海、見晴るかす青一色の世界。染まることなく飛び、舞い、漂い、遊ぶ。白い「孤」としてあろう。それを楽しみたい‥‥。