それでも何が幸いするか分からない。帽子屋の特大サイズでも間に合わない頭蓋骨が独特の声の響きをもたらしていると声の質だけは、わが師匠・マダム長坂の太鼓判。
唄が無理でも台詞で、マダム長坂の舞台を引き立てる大役を仰せつかることになった。ダリダの唄にアラン・ドロンが口説き文句を囁く「パローレ・パローレ」、なんとその女たらしの台詞を受け持つことに。こうして歌手リリ・レイお付きの、声出す「大道具」の特訓が始まった。
フランス語で歌う実力派リリ・レイことマダム長坂と同じ舞台に共に立つ。これほどだいそれた体験はそうそう味わえるものではない。
緞帳の上がる寸前まで、いや足許からするする上がり始めてもまだ、緊張のあまり膝ががくがくしている情けない大道具の緊張をほぐそうと、サービス精神旺盛、茶目っ気たっぷりの表情で冗談を絶やさない。それが「はい、息吸って」と腹一杯空気を吸い込んだ途端、別の生き物になる。
月並みな表現になるが、つくづく舞台とは不思議な場所だ。無数の視線と演者の身体のぶつかるところ。‥‥素人がもっともらしく言い募るのは野暮というものだから、このくらいにしておくが。
特別な空間でマダム長坂はリリ・レイとなり、縛#いまし#めを解かれたように自由にはばたいているのを目の当たりにした、とだけ記しておくことにする。
気がつけば大道具も大道具なりに声を発している。馴れ合いになった男女の恋の駆け引き。洒落た粋#いき#は必要だけれど、下品に落ちては身も蓋もない。
お役目を無事果たせたかどうかは別にして、緊張に身を置くのは今回限り、もう絶対にお断りしようと思いつつ、声を掛けられると、またすっかりその気になっていたのは何故だろう。
舞台に身を置くことで自分の「生」が更新される、そんな想いを一度でも体験した者の中毒症状だろうか。
お陰で、いろいろ体験させていただいた。大道具の立場でなければ決して踏むことのできない舞台にも立たせていただいた。平日の昼間、会社の有給休暇を取って出た舞台もたびたび。もちろん家人以外は絶対の内緒。なかでも忘れられないのは三越劇場だ。
大道具である以上、楽屋の割り当てはなく楽屋の並ぶ廊下で時間をつぶしていると、車椅子に乗った老紳士が現われ、トリを取るビッグネーム専用の特別な楽屋に入り込んで行く。歳月を経ても端正な面差し、それは高英男だった。
北海道出身の父は「この曲を聞くと札幌を思い出す」と、高英男の「雪の降る町を」のレコードを大切そうに買ってきた。ジャケットには、日本人離れした彫りの深い風貌が印象的な歌手の姿が刷り込まれていた。
あれは昭和30年代だっただろうか。そのレコードには「枯れ葉」はじめ何曲かのシャンソンも吹き込まれていた。
小学校何年くらいだったのか、それがシャンソンとの出会いでした。
廊下に顔を出したマダムに話すと「ぜひ声を掛けてあげて。歳を重ねた歌手は、みな孤独なものよ。どんなにちやほやされているようでも。そういう話が嬉しいの」。
いつになくしんみりした調子のマダムに促され、車椅子の歴史的存在がリハーサルから戻ってきたとき、思い切って父のレコードからシャンソンとの出会いまで話しかけてみた。
遠くを見る目つきで頷きながら「それで、あなたは今日の舞台に立つのですか」「はい。ただし師匠のお供の台詞です」。「ちゃんと聞いていましょう、落ち着いて」気品のある穏やかな笑みで励ましてくれた。
三越劇場は商業演劇や日本舞踊、軽音楽のコンサートと、一流の舞台人が日頃磨いた芸を発揮する場だ。
日本橋越後屋呉服店以来の伝統とステイタスの刻印されたところに、まぎれ込んでしまった大道具。楽屋の廊下にいるだけで、劇場の醸し出す風格に圧倒される。
これだけは員数に入れておいてくれたものらしく、支給された二段重の弁当を手にしても、とても開いて食べる気にはなれない。食欲などからきし、やたら喉が渇くのみ。
出番までの待ち時間が果てしなく長い。といって台詞をちゃんと暗記しているか、今さら確かめる気にもなれない。
いざ本番のときには、すでに神経的にくたくたになっている。大道具としてはひたすらマダムの指示頼み。それにしても由緒ある舞台は、装置もそれなりの年代を経ているせいか、大小のコードがとぐろを巻き、ころばぬように足を運ぶのがやっとだった。
その分、肝腎な台詞の方に神経を集中させられなかった。いやかえってその方が力まずによかっただろうか。‥‥なんとか務めて舞台を降りると、思いがけず階段下の通路で車椅子の高英男が、拍手しながら迎えてくれた。ととのった顔に満面の笑みを浮かべて。握手した掌は温かかった。
このコンサートが日本人シャンソン歌手第一号である氏の、最後の舞台となったと知ったのは、半年ほど経ってからだった。