あら皮の法則:バルザック「あら皮」

バルザックの大きさは矛盾の大きさでもある。

人間、社会、世相、風俗、これほど鋭い観察力と洞察力を作中で示す才能の持ち主が、実人生ではまったくその才能を生かせない。

少し目端をきかせたつもりの事業はことごとく失敗し、多大な借金を抱えては逃げまわり、成り上がり者まるだしの趣味の悪さを笑われ、正統王朝派を自任することでまたまた失笑の的となる。

19世紀前半を代表する巨人は、作品にとどまらず実人生を覗きたいとの誘惑にかられる稀有な存在だ。そうして評伝に目を通し、膨大な作品群の何作かを読み直そうと思ったとき、真っ先に手の伸びたのが「あら皮」だった。

地方出身の貧乏学生がパリに出て、立身出世と栄達を夢見、生活を切りつめ、禁欲的な研究と執筆、思索の日々を送る。たぐいまれな分析能力と文章力、強靭な意思力、探究心と同時に燃えさかる上昇欲、所有欲、支配欲。熱い欲望にせきたてられながら繰り広げられるストイックな生活情景。若きバルザックの姿を忠実になぞっているように感じられたからだ。

‥‥すっかり破産した青年ラファエルは、邪魔の入らぬ夜になったらセーヌに身投げしようと決意を固め、陽の落ちるまで時間をつぶそうと入り込んだ通りがかりの骨董店で一枚のなめし革を手にする。

サンスクリット文字の印されたなめし革は魔法の皮で、持ち主の願いをなんでも叶え、叶えるたびに縮んでいく。縮む皮は持ち主の寿命をあらわしていて、皮の縮むたびに、生命も縮む‥‥。

19世紀30年代のパリに、千夜一夜物語にでも出てきそうな舞台装置が出現し、物語を動かしていく。

バルザックの小説はともかく饒舌だ。登場人物のセリフひとつとっても、よくこれほど筋道立てて情熱的に語れるものだと呆れるほどだが、地の文はもっとすごい。微に入り細を穿った情景描写や歴史的背景の丹念な説明にいたっては眩暈を覚えるほどだ。

読み直しの強みはこんなところで発揮される。ストーリー展開をいちおう把握しているから、これからどうなるのだろう、と焦せらずにすむ。これが大きい。饒舌を適宜流しながら、ここはと思う部分を楽しめる。

バルザックは優秀なジャーナリストでもあったから、1820年代から40年代のパリを体感として味わうことも出来る。この点で今回最大の収穫だったのはフォーブール・サンジェルマンからショセ・ダンタンへの覇権の移動、つまり貴族からブルジョワへ文化主導者の交代劇は1830年頃にはなされていたという証言を読み取れたことだ。

富も恋も手に入れたラファエルは、なめし革の縮みように怯え、自己幽閉の日々を送ってみたり、高名な科学者や医学者を呼んでみたり。一切効果がないと知るやパリを逃げ出し地方の湯治場や田舎を転々とし、最終的にはパリに戻って運命の日を迎える‥‥。

個人の内に湧き出るかにみえる欲望は、すなわち社会的関係からもたらされ生み出されたものである。と同時に動態としての社会は人びとの欲望の関数としてあらわれる。バルザックの作品の醍醐味は、こういうスリリングな認識の上に展開されるところにある。

なにごとであれ欲望の対象は、生命を縮めることではじめて手に入れることが出来る。欲望は生命を消費する対価としてのみ実現される。この作品は「あら皮の法則」とでも呼ぶべき、この経済原則についての書である。

それこそ千夜一夜物語以来、説得力をもって刷り込まれてきた経済原則のような気もする。しかし、これは本当に疑いようのない原則なのだろうか。‥‥もしかしたら、これこそ大きなドグマなのではあるまいか。

欲望と寿命などそもそもまったく別の次元の問題かもしれない。いやいや仮に関連があったとして、欲望を拡大していけば拡大していくほど寿命は伸びる、そういう関係だって充分に成り立ち得るのではあるまいか。

言葉の定義にもよるだろう。しかし、それなら次のような物語を考えてみればいかがだろう。

ラファエルの欲望が達成されるたびに、逆になめし革は大きくなっていく。何事か欲するたびに願いは叶えられ、なめし革は広がり寿命は伸びる。‥‥何をやっても望み通りで寿命は伸び、死ぬに死ねない、死の願いだけは矛盾するもので排除されるから。願えば願うほど満たされ生命はさらに延長される。

テーブルクロスほどの大きさだったなめし革は次第次第に大きさを増し、部屋中を覆い、いつしか広壮な屋敷には収まりきらなくなり‥‥。

これはこれで面白いストーリー展開となりそうではある。だがこの場合には、充足されつづけることを約束された欲望は、果たして欲望と名付け得るのか、と問いたい。欲するたびに増大する寿命、消費されることのない時間は時間と認識し得るのか、もはや寿命、生命と呼び得るのか‥‥。

欲望という名の、あくびの出そうな倦怠。どこまでも平板につらなる砂漠をしか意味しない生のように思われる。

寿命と引き換えにして燃え上がる、生の燃焼。「あら皮の法則」にはやはり説得力ありと軍配を上げたくなる。

欲望とは「生」において、ある種の過剰を意味すると。

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