ジャン・ヴァルジャンの鏡像たち

リュクサンブール宮(セナ)のユゴー像
リュクサンブール宮(セナ)のユゴー像

――読書漂流「レ・ミゼラブル」その1

東洋の島国でも黒岩涙香の翻案「噫無情」以来、ジャン・ヴァルジャンの物語はすっかり馴染みのもの。海外名作の主人公としてはハムレットやドン・キホーテと並ぶ知名度ではないだろうか。さらに映画、ミュージカルと裾野をひろげ、国際的にこれほど息長く読み継がれている小説も滅多にないだろう。

何年か前、いや十何年前、もしかしたら何十年前にもさかのぼるか、とにかくたまたま手にした稲垣直樹という研究者の文章に、目からウロコの想いにとらわれた。

ジャン・ヴァルジャンはナポレオン・ボナパルトと同じ年に生まれ、一方がたったひとつのパンを盗もうとして徒刑場に送られた年に一方は軍人として華々しいデビュを飾り、19年後の1815年ワーテルローの戦いでナポレオンが敗北した年、出獄したジャン・ヴァルジャンはミリエル司教と運命的な出会いを遂げる。‥‥この二人はシンメトリーな存在として造形されていて、ナポレオンの時代が終わるときジャン・ヴァルジャン物語の幕は開く、と。

以来、全巻通して読み直そうと思いつつ歳月は流れ、ちくま文庫から西永良成訳の出たことが再読の契機となった。ずっと以前に全篇を読み通したときには作品世界の構造を俯瞰するだけで精一杯だった、あとは折に触れ部分的な読み直しを繰り返しはしたものの、やっとこの稀代の世界的ロングセラーをひとつの全体として味わうことが出来た気がする。

主人公を中心とするストーリー展開の醍醐味はもちろん、歴史小説としてのスケールの大きさは圧巻と言うしかない。しかし今回それにもまして圧倒されたのは、登場人物の造型の豊かさだった。記憶の薄れぬうちに、彼らのプロフィールを何人かについて記しておくことにする。

鏡像の出現

ナポレオンと対をなす、ある意味ではナポレオンを超える「精神の英雄」を描こうとする作品の構造上、ジャン・ヴァルジャンに接近し内面に入り込むだけでは、到底人物像を示しきれるものではない。

高い山を描く場合、その山のみを描くことでは決して「高さ」を表現できない。そこに山が描かれている、で終わってしまう。周囲の低い山々、はるかに広がる平野との対比、その落差、差異によってはじめて山の高さは表され得るだろう。

登場人物の幾人かがジャン・ヴァルジャンの鏡像として現われる根拠はここにある。ジャン・ヴァルジャンその人とジャン・ヴァルジャンになり得たかもしれない存在。三面鏡の鏡の向き合う角度を変えることで鏡像が出現するように、彼の影たちが姿を現わす。鏡像たちの出現で、立体感を伴う「高い山」として彼も立ち上がってくる‥‥。

ジャヴェール

ジャン・ヴァルジャンをつけ狙って行く先々、よくもこれほどと言うほど執念深く登場しては物語を暗転させる、稀代の悪役ジャヴェール。この権力と秩序に忠実な、警察官になるために生まれてきたような男は、次のように紹介される。

雌狼の息子の犬に人間の顔をつけてやると、ジャヴェールになる。

この男はきわめて単純なふたつの感情から成り立っていた。〔略〕すなわち、権威にたいする尊敬、そして反逆にたいする憎悪である。

迷いのない使命感に衝き動かされるまま、あくまで追い回し付きまとうことで、この優秀なイヌの人生はジャン・ヴァルジャンのものと密接不可分に綯い合わされていく。

作品中でしばしば強調されているように、法の番人いや番犬はまことにイヌにふさわしく誠実であり、清廉実直そのもの。そこに迷いも疑いも生じる余地はないはずだった。‥‥それがジャン・ヴァルジャンの運命と綯い合わされ、この驚くべき元徒刑囚との関わりが深くなるにつれて、ジャヴェールの内にきしみが生まれてくる。イヌの価値と人間の価値のきしみ。イヌの正義と人間の正義のきしみ。

バリケードの中、絶体絶命のところを救われ、瀕死のマリユスを助け出そうとする無私の営為を目の当たりにして、ジャヴェールを形作る規範は揺らぎ、崩れていく。‥‥信奉する秩序や法、体制を超えた価値が存在するのではないか。こう問いかけたとき、イヌはもはやイヌたり得ない。

ジャン・ヴァルジャンは回心のひと。苛酷な生の進み行きで障害や苦難に出会うたび、試練に耐えつつ回心し、意志的に自らをもうひとつ高みへと持ち上げるひとである。ミリエル司教との出会いを契機とし、この出会いによって覚醒した彼自身の意志によって欲望や慢心と闘い、回心をまっとうしようとする意志のひとである。

ジャン・ヴァルジャンがミリエル司教と出会ったように、ジャヴェールはジャン・ヴァルジャンに出会った。そして回心の契機を得ながら、契機を契機とすることは出来なかった。‥‥凝り固まった自己の混乱を内に、セーヌ川に身を投げる。

テナルディエ

歴史小説たる「レ・ミゼラブル」は、世代交代の物語、新しい時代への引き継ぎの物語としても読める。地上で果たすべき役割を果たし、後から来る者に想いを込めて去ってゆく。こういう物語の登場人物群像にあって、例外的な存在がテナルディエと言っていい。

ワーテルローの闘いで絶命し横たわる将兵たちから金品を剝ぎ取ることに始まり、強請りタカり盗み、時に居丈高に時に卑屈に、少しでも金づるになると見るや、誰かれ見境なく徹底的に搾りあげる。弱い者には無慈悲に、強い者には腰低く抜け目ない。その執念深さ執拗さには呆れ、笑い出したくなるほど。

誤字だらけとは言え文字も書ければ計算もできる、記憶力抜群。腕力の弱い頭脳派小悪党。真っ当に働けばそれなりに頭角を現わしそうなものだが、まずはそうならず、いつでも貧困のうちにあるのは、悪行というやつ、そうそう儲かる稼業ではないのだろう。悪行とは言え、小さなエゴイスムとプライドに支えられた、所詮ケチなものに過ぎないのだが。

回心し、人間としてさらなる上昇を果たしていくジャン・ヴァルジャンと性懲りない小悪党、この性懲りなさこそ、高潔な聖性の対極を指し示している。悪こそ自己実現、卑劣さこそ自己表現、地べたに這う毒虫の生活を一種倒錯した規範として生きているのではないかとさえ思えるほど。

絶対的な理解者である妻を獄中に亡くし、子どもたちとも縁は薄いが終始一貫ライフスタイルを変えることなく、最終的にはマリユスにタカった金で新大陸に渡り、奴隷商人となったとある。あらゆる時代、あらゆる世界を通して、このタイプは生き抜いていく‥‥というように。

忘れてならぬのは、ユゴーが愛し、未来を託す者として描く民衆の血脈上の父親はジャン・ヴァルジャンではなく、彼だという事実だ。聖性は、血脈上の父親たり得ぬところに生じるとでもいうのだろうか。ジャン・ヴァルジャンとテナルディエ、聖と俗の対比の意味はさらなるテーマの発端と言っていいかもしれない。