パリに暮らす喜びのひとつは、焼きたてのバゲットにありつけることだ。
運良く焼きあがったばかりのパンを手にすると、それだけで仕合わせな気分になる。ささやかな、しかし掛け替えのない喜び。パリはそういう喜びを分け与えてくれる知恵に長けた街だ。
小麦粉と塩と水をこね焼き上げただけ、というのに何故こんなに香ばしく豊かな味わいなのだろう。パン屋を出るといかめしい老紳士も、おしゃべりなパリジェンヌもバゲットの端をちぎって口にする。家まで待てない待つこともない、誰もがそんな気持ちになる。
職人の焼くパンは形も不揃いなら、焼け具合もさまざまで「よく焼けたの」「白っぽいの」と、売り子に注文をつける客も多い。概して南フランスでは焼きの浅い白っぽいものが好まれ、北ではきつね色よりさらにこんがり焼けたものに人気があるという。
マルセイユ出身者がパリに出てきてまず驚くのは、焦げた色のパンを食べていることだと聞いたことがある。東京に出てきた関西人がうどんつゆの色に驚くのと似ているかもしれない。
毎年一回バゲットのコンクールが開かれ、入賞者は獲得メダルを店先に表示して腕前を誇示する。一等賞に輝いた者は一年間エリゼ宮御用達、大統領のパンを焼く栄誉にあずかるのだとか。
なんでもコンクールを開いて、こういうことをするのが好きな人たちだな。この話を聞いたときには、微笑ましさと同時に呆れもしたものだが、単なる遊び心だけでこういうことをやっているのではないと知って、なるほどと納得した。
こういうコンクールを開催することで、目立たぬながら、食文化のもっとも基本を支えるパン焼き職人にスポットライトをあて、伝統的な技量を称揚する。誇りある技術の後継者、継承者の誕生を促す。
このコンクールだけでそれだけの効果を生み出すとは思えない。けれど、いかにパン焼き職人を大切な職業ととらえているかを示すパフォーマンスのひとつにはなる。
それだけパン焼き職人は苛酷な職業であることを意味しているとも言える。夜の明けきらぬ街を歩いているとまず目に入るのは、緑色の作業服に身を固めた市の清掃員たち。そして鼻に入るのは、職人たちが焼くパンの香りだ。
しかも彼らの作業場はたいてい店舗の地下にある。朝早くから夕方まで来る日も来る日も粉にまみれ粉をこね、パンを焼く。腕さえよければもっとも安定した職業のひとつとはいうけれど、なかなかきつい。文字通り日の目を見る機会にはなかなか恵まれない。
機械化した工場生産のパン屋チェーンもあれば、スーパーマーケットだってある。とてもうかうかしていられない‥‥。
それでも彼らが街から姿を消すことはないだろう。
いかに不揃いでまちまちの出来上がりであっても、熟練した職人の焼くパンは断然美味いのだ。菓子屋のケーキもいいけれど、パン屋の作るケーキは飾りけのない家庭的なものだ。暮らしに寄り添った、身近な文化的営為なのだ。
時折、日本の若者が店の奥で粉にまみれている姿を見かける。一級の職人として、すっかり街の人気者になって活躍している人も多い。現在の日本では失われた価値と誇りを、この街でこういう形で取り戻そうとしているようにも映る。
下の階のアパルトマンに暮らすムッシューとパン屋で顔を合わせるときには、いつもバゲットが熱々の焼き立てであることに気がついた。長年の常連はパンの焼き上がる頃合いを熟知していて、それに合わせて買いにいくのだろう。
とかく時間にルーズなフランス人、と固定観念を抱かれることも多いがどうしてどうして、抜け目ないところは抜け目なく、計算するところはちゃんと計算しているのである。