もう森へなんか行かない

フランソワーズ・アルディ歌う「もう森へなんか行かない」をはじめて聞いたのは1970年前後だった。行き場のないエネルギーを持て余し気味のハイティーンは、深夜のラジオ放送から流れる唄に一発でまいった。

ナチュラルなくせに物憂げ、醒めていながら熱く、打ちふるえるような感受性と怜悧な知性が同居している。乾いたつややかさ、控えめな挑発、媚びないコケットリ、仕舞い込まれた傷、淡々とした喪失感‥‥。

衝撃だった。こういう発声、こういう表現、こういう歌い方があったのか。溜め息が出た。

下手に歌詞の意味の分からぬのが、かえって想像力を刺激したのかもしれない。タイトルの力も大きかった。原題の「青春は逃げていく」より、歌詞中のフレーズから選ばれた「もう森へなんか行かない」が想像力、というより妄想力のスウィッチを入れた。

森。

魔法使いのおばあさんがお菓子の家を作り、赤ずきんに話しかけるオオカミがいて、七人の小人たちが住むところ。うきうきする喜びと取り返しのつかない誘惑のひそむ場所。優しい妖精の棲むのも、白馬の王子に出会えるのも、狩人の仕掛けた罠でずたずたにされるのも。

森に囲まれ、森の恵みに生かされ森からのしっぺ返しに痛めつけられながら、人びとは森と共に生きてきた。

遠い祖先からの記憶が生きつづける、森という異界。ディオニュソスや牧神、ニンフたちが豊穣と快楽の宴(うたげ)を催すかと思えば、凍てつく冬は一面の銀世界が雪の女王の支配下にひろがる。

アルディの唄は、お菓子の家から逃げ帰ったヘンゼルとグレーテルの語る世界であり、眠りから醒めた「森の美女」の呟く言葉なのだ。

半世紀近い歳月を経て、久しぶりに耳にする。

甘みと苦みがかろやかに漂う。小憎らしいほど洒落ている。そして思いがけぬ声の若さを痛々しくもみずみずしくも感じる。

森で味わった喜びと痛みを噛みしめながら「もう森へなんか行かない」と決意したのは、森の怖さを思い知ったからだろうか。それとも森の魅力を感じ取れなくなったからだろうか。

森の中で、われわれが本当に体験したのはなんだったのだろう。思い出せぬほど充ち足りた快楽だったのか。忘れてしまうほど罪深いことだったのか。

アルディの唄に誘われながら、いまこそ確かめたい気がする‥‥。ディオニュソスと酒精を酌み交わすのもいいし、年老いた魔女の思い出話を聞くのもいい。

遠い記憶の森を歩いてみたい、失われていた想いを呼び起こすために。

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