懐かしさから:「近代化」考

どうしてパリなのかと問われる。

還暦過ぎて言葉もままならぬ、観光で訪れたことしかない、小説映画絵画を通してしか知らぬ、頼れる縁故知人とてない地に移り暮らしているとあれば、受けて当然の問いだろう。

受けて当然と納得しているくせに、問われるたびにうろたえ、戸惑い赤面する。とても説得力のある答えになっていない、と我ながら感じつつ話しているからだ。

‥‥40歳を前にはじめて観光で降り立ったパリで、懐かしさと呼ぶしかない感覚にとらわれました。不思議でしたよ、はじめて見る光景、はじめて歩く街並みが単なる既視感というのとも違って、無性に懐かしい。この懐かしさ‥‥その正体を見極めることが人生後半の目標になりました。20年の歳月を経て、やっとその地に乗り込んで来た感じです。

噓ではない、噓ではないけれど、なんと曖昧であやふやで漠然としていることか。分別ざかりにあるはずの年代で吐く言葉とはとても思えない。

それでも時折、深く頷いてくれるひとがいる。そんなときにはむしろ、こちらがあわててしまう。あわてながら、ほんのひと握りの少数派であっても「懐かしい」という感受性を共有できる存在の、確かにあることを知る。

これは、充分に考えるだけの値打ちを持ったテーマである、と励まされたことになるのではないか。そう受け止めることにした。

懐かしさを発するところ、具体的には19世紀パリとフランスをぼうっと頭に描いてみる。

フランス革命がいつの間にかナポレオン帝政へと変質したところから19世紀は始まる。以降、王制、帝制、共和制‥‥革命、暴動、クーデタ、内戦‥‥国際紛争、戦争、植民地争奪‥‥の繰り返し。政治的には凝り固まった正統王朝派から立憲王制派、ボナパルティスト、穏健共和派、社会主義者、コミュニスト、アナーキストにいたるまでおよそオールスター。

ロマン主義の勃興があり、リアリスムから自然主義、象徴主義。美術面では印象派の革命。演劇、音楽、これまた試行錯誤、実験、破壊、創造の絶え間ない動き。哲学、思想面での問題提起の数々、学問の本質が問われ、産業革命のもと社会構造は大きく変わり、自然科学の進展と技術革新は不動のものとなった。

身分制崩壊の最終過程、政教分離、農村の再編、急速な都市化、労働問題、識字率と教育制度、病気と衛生医療、家族制度。民族問題と宗教、神秘主義、男女の性差と役割、地方と国家、階級の断裂と社会制度、情報産業、犯罪、環境汚染、共同体と民衆‥‥。

思いつくだけでもキリがない。要するに各分野、諸問題が相互に連関し、ダイナミックにぶつかり合いながら、現在へとつづく道筋をつけてきた。

オリンピック、万国博覧会、ワールド・カップ‥‥ついでに言えば、世界規模の文化交流という発想も彼らに負うところが大きい。

いいとか悪いとか、ここで価値観を持ち出す気はない、光と影、陽と陰を含んで、ただ不可逆的、不可避的な流れだったことは抑えておきたい。‥‥それを「近代化」と、とりあえずまとめておこう。

ドイツの近代化、エジプトの近代化、メキシコの近代化、中国の近代化‥‥不可逆的、不可避的な歴史の流れである以上、どこにでも近代化は押し寄せる。ただしその表れと形はさまざまだ。

多様な近代化が世界中に、文化の数だけある。そう言ってもいい。‥‥そういう視点からあらためて「19世紀の首府」パリを見直すと、そこは特別な場であると再認識することになる。

何もかもが放り込まれぐつぐつ煮込まれた鍋。さまざまな思想思考問題意識価値観が煮溶かされ、およそ人間として考え得るすべての鋳型に流し込まれ、人間的営為のあらゆるモデルが出現した。‥‥その規模の大きさと多様性たるや、類例のないものだった。

政治的権力的な縛りのまま近代化に突入せざるを得なかった地域もあれば、先進文明の陰画でしかありえぬ近代化もある。文化的タブーが強ければひきつった近代化を迎えるだろうし、宗教的なあるいは因襲的な強迫観念にとらわれた社会では歪んだ近代化が一般化しただろう。特権的な一部の階級によってのみ近代化の波を受けたところもあれば、近代化イコール従来のシステムの破壊を意味する場もあった。

普遍的不可避的な歴史的波動である近代化にあたって、自由な市民が充分な選択肢を前に思索し、十全な論議をし得るといった場面の方が奇跡的であったというべきかもしれない。

パリはその意味で幸福な例外だった。混乱と逸脱のうちにあったとは言え、選択肢がさらなる選択肢を生み出す場としてあったのだから。フランス革命、人権宣言以来、近代化を領導する初源的な場として機能しつづけていたのだから。

パリの発する懐かしさの一因は、少なくともこのあたりにありそうだ。可能な限りの選択肢を生み出し、提示し、提起し、過ちも誤りも含めて、選び出してきた、まさしくその在りように。

こうして、懐かしさを掘り下げていくとき、それは近代化をめぐる考察の発端となった。

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