冷笑への傾き:フロベール「感情教育」

固い信念と燃えるような意志、断固たる行動力と溢れ出る情愛。バルザックやユゴーの小説に登場する、そのようなヒーローたちとはまったく対照的なところに位置するのが、われらがフレデリック・モロー。

決して物が見えていないわけではない。物事の道理が分からぬわけでも薄情なわけでもない。とびきりの大金持ちではないけれど、いざ破産となれば急逝した伯父の遺産の転がりこむ運もあり、まずはパリで働かずに女性と付き合い友人に食事を奢れる、恵まれたご身分でもある。

バルザックやユゴーの作品に感化された地方の名家の青年が、地縁血縁から解放されて、パリに出てさえくればどうにかなると思い込んでいる。それは19世紀フランス小説に登場する、ひとつの典型的なタイプでもある。

社会的上昇欲や物質欲だって人並みに抱き、首府に憧れ引き寄せられ、胸踊る新生活を始めるわが主人公。友人付き合いが悪い方ではないし、女性にだって愛される、年配の有力者からも好感を抱かれる、それだけの魅力はある。何だって出来そうな気もする。美術に惹かれ、劇作だって出来そうだ、歴史小説をまとめてみたいし、政界に打って出るのも悪くない。

しかし、こうであらねばならぬという信念は逆さに振ってもかけらもない。優柔不断。決断力ときたら別の世界のことば。おだてられればすぐその気になって、興が醒めればただちに忘れ果てる。川面に落ちた葉っぱのように流される。

ロマン主義的青年主人公のパロディと言ってもいいくらいの、要するにダメ男なのだ。

‥‥何を隠そう、実はこの種のダメ男というのが嫌いではない。愛おしくさえ感じる。「ダメ男」を主題にしたアンソロジーがあれば、真っ先に枕頭の書となること間違いないほど。

我が身と共通のダメさ加減を分かち合う喜びは、もちろん。けれどもそれだけではない。そのダメさ加減を通じて、ひとの持つ性(さが)とか、社会のカラクリのようなものが滲み出てくる。それがなんとも味わい深い。

1840年アルヌー夫人との運命的な出会いは、1848年2月にクライマクスを迎える。わがフレデリックくんの、天にもてあそばれたとでもいうしかない生涯は、このクライマクス、いやアンチ・クライマクスに端的に示される。

オルレアン朝の瓦解、第二共和制の成立からルイ・ナポレオンの登場という19世紀半ばフランス社会の迎えた、歴史の劇的な転換期を背景にこの物語は描かれる。逆に言えば、ダメ男の生活の裂け目に、歴史の歯車の回転が見えてくる、そういう構造になっている。

個人と社会と。それぞれが自立した単位を示しながら、互いに切り離せるものではない。重なり合いながらはみ出し合ってもいる。個人は社会に含まれながら社会を超え出る可能性を持ち、社会は個人によって構成されながらしばしば個人に対峙する。

‥‥白い花を好もしいと感じるのは、個人的な嗜好のあらわれという意味では自立的かもしれない。それなら白い花を美しいと感じるのは自立的だろうか。社会的価値(文化コード)の反映から無縁であるとは言いきれないのではないか。

フロベールの小説は、その社会を生きる人物存在の重層性が描き込まれている。生きた人間の全体像と向かい合う醍醐味が、そこにはある。

時を置いての再読。しかしこのたびフレデリックくんは笑わせてくれなかった。読み返しながら、これはまたいつか、再び読み返さねばならないという気になった。

‥‥迷子になったのだ。この小説世界の中で迷子になった。とりあえずおしまいのページまで読み進めながら、まともに出口に達した実感を持てない。フレデリックくんが彼の時代の迷子であるように、読者として小説世界の迷子になった。

後に二月革命と呼ばれることになる歴史の結節点の日、次第に緊張感の高まる街角で、やって来ないアルヌー夫人を待ち、待ちわび、待ちつづけ、挙げ句に他の女性と結ばれてしまう。この、運命的な恋愛のちぐはぐで滑稽な行き違い。

それはパレ・ロワイヤル前広場の王党派、共和派入り乱れた戦いの描写と響き合う。馬上の軍人、共和派の青年闘士、立ち上がる民衆、それぞれの生態をとらえながら、これまたどこかちぐはぐ、軍人、闘士、民衆の形を取った個人が勝手に動いている。

勝手に動きながら、なんとなく収まるところに収まっていく。運命的な恋愛も、大文字で記される「歴史」も、それを構成する微粒子たる個人の、個別でちぐはぐな意思と行動の総体として‥‥。

人間なんて、しょせんそんなもの。

それ以上でも以下でもない。

マイダス王の手に触れるやすべてが黄金と化すように、フロベールの手に掛かると、人びとの営為は何事も紋切り型の愚かしくも滑稽な所作と映ってくるようだ。

人間なんて、しょせんそんなもの。

だからこそ根底でつながり分かり合える、愚かしくも愛おしいもの。そういう共感の微笑みに回収されるのか、それとも救いがたき愚かしさへの冷笑へと転がっていくのか。‥‥読み進めるとともに、両極の笑いに宙吊りになって顔こわばらせているのを感じる。

読書は読み手の精神状況を映し出す。

ひとはその在りようにおいてしか書物と向き合えない。‥‥ということは結局のところ、ひとは自分の読みたいようにしか読んでいない、いや読めないものかもしれない‥‥。

フロベールから受けた挑発、その思いが強い。宙吊りの笑いを凍りつかせたまま。

しばし時間が欲しい。

ジャン・ヴァルジャンの鏡像たち » 遊歩舎
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