2017年10月22日、衆院選のあとで

「あの」政権が衆院議席3分の2を維持することになった。

現在進行形の政治現象について、ストレートな言葉をアップすることにはためらいがある。反射的な思考、瞬発的な判断に自信を持てぬ以上、消化不良のまま言葉を垂れ流しかねない。

その可能性を認めつつ、それでも、いま感じるところを記すことにする。

大手メディアの予測どおり「あの」政権がつづくことに決まった。仮に何か突発的な出来事があったにしても、「あの」一味か、「あの」流れを受けた政権がつづく。

信じがたくもあれば、呆れかえってしまっても、それが現実だ。

選挙制度そのものの問題もあろうし、悪評高い独占企業による投票開票方法にも問題はあるのかもしれない。天候に恵まれなかったせいもあるし、解散のタイミングの姑息さもあった。

仕掛けられた反対派完全消滅策動はからくも避けられ、「本当の敵」を前にまがりなりにも野党は連合を組んだ。ふるいにかけられ、政治家として成長する者の姿も見られ、得られる議席は得た。

それでも「あの」政権を倒せなかったし、倒せなかったどころか信認を与えたことになる。その事実はくつがえせない。

これから、さまざまな検証がなされ、今後の展望が語られることを期待する。「あの」政権の暴走をいくらかなりと食い止められるか。その時間的猶予があるのかどうかは、ひとまずおいておく。

門外漢の身としては、この事実を嚙みしめながら思索の綱渡りを試みるしかない。それが認識をわずかなりとも豊かなものにすると信じて。

 いつの頃からか、この東洋の島国に暮らしていると、ずぶずぶへどろに足を取られるように沈みこんでいく感覚にとらわれるようになった。逃れようもなく身体にまとわりつき、もがけどもがけど確かな足場を得られぬから、じたばたしながら力尽き息絶える。

‥‥次第にその感覚は強まり、そうである以上、その正体を少しでも見届けようと三つの視点を選び出した。いわば定点観測の場所の設定のようなものだ。以来なにかにつけて、この視点を中心に社会状況を観測、判断材料とする習慣が身についた。

)死刑制
 Ⅱ)在日外国人との共生
 ⅢNHK、メディア

たとえばⅠ)。国家が法の下に自国民の生命を奪うのはどういうときなのか、何を意味するのか。国家とは、国民とは、そもそも法とは。

そのような問いかけは無意識的にか意図的にか、なされぬまま事態は推移している。本質的な問いかけや思考とは無縁なところで、情緒論が大手を振るう。

先進国の中では異例の死刑制度支持率を誇り、実際に執行をつづけている現実。ここでは、自白至上主義による被疑者取り調べの異常な実態や、冤罪の可能性すら考慮されない。

Ⅱ)からは歴史修正主義、歴史的現実に頰かむりした上でのヘイト発言や嫌韓嫌中をあおる言説の日常化が見える。ヨーロッパの極右勢力が「移民政策を日本に学べ」と述べるまでになった。極右勢力の手本へ、これをブラックジョークと取るか否か。

報道から広報機関へと変質しつつあるのが、Ⅲ)の視点で観察される。日本のメディアに対する海外からの信頼度は低下の一途をたどり、もはやまともな情報の発信元とは見なされていない。

たまたま選んだ三つの視点。各項目について細かく述べるのは別の機会に譲るとして、そのいずれもが「あの」政権の性格ときわめて親和力の高い方向に動いていることを示している。

医療、介護、少子化、教育、家庭、軍事、産業、雇用、生活保護、エネルギー、環境、文化行政‥‥さまざまな別の観点からの観測でも、同様なことが言えるに違いない。この点を、いくら強調しても強調し過ぎることはないだろう。‥‥それが心底怖い。

どういうことか。

「あの」政権がへどろ状況を作り出したのではなく、へどろ状況が「あの」政権に結晶した。そして「あの」政権は、さらにへどろ状況を促進、揺るぎないものにしていく。

一時的、一過性のものではなく、へどろの深化過程として「あの」政権は位置づけられるということ。

このクニの、どこかで埋め込まれた因子に導かれた社会システムの不可避的な推移・展開。へどろの生成と深化、そのようなものとして捉えなくてはならないのではないか。

ひとを決して幸せにしないシステム。その現状に抗しながら、根元から断つ。

口にしたパンを旨いと感じ、出会いを喜び合える友人に恵まれ、読書の余韻に浸り、昨日の悪夢に怯え、それでもまた迎えられた本日にまぶしさを覚え、葡萄酒に酔っ払い、歩き過ぎる街を懐かしむ。

そういうひとりとして、書きとどめておく。

大変な時代を生きている。

返事を書く

CAPTCHA