いなかモンはヤだねぇ

いなかモンはヤだねぇ、と言ったら、東京に生まれ育ったっていうだけで地方出身者を差別するんですか、と青筋立てて抗議されたから驚いた。

東京は神田で産湯につかろうが、大阪の船場で育とうが、ニューヨークで仕事しようが、ミラノでメシを食おうが、田舎もんは田舎もん。感受性の質を問題にしてるの。東京なんてある意味、田舎もんの吹き溜まりなんじゃないかな。

それでもやっぱり農民蔑視のにおいがする、と青筋立てたままだから、冗談じゃない、むしろ明治維新とやらで威張り散らした薩長の芋侍(いもざむらい)、下級武士どもに対する民衆の反抗精神だよ。

‥‥あとはむにゃむにゃ、相手はまともに話を聞くでもなかったし、こちらもいささか呑み過ぎて今さら丁寧に説明する気力もなくて、そのままほったらかしにしたままだった。

何年も経って、なぜかそんなシーンのあったことを思い出したら無性に気になってきた。遅ればせながら書き留めておこう、今さら当時の同僚だった彼が、この文章を目にする可能性は限りなくゼロに近いにしても。

軽蔑、侮蔑をこめて、確かに「いなかモン」という言葉を使う。そのときの気分や字面によって、田舎もん、イナカもん、いなかモンをはじめ、さまざまに表記するけれど、とにかく褒め言葉として用いることはまずない。

たとえば「ばか・馬鹿」とか「やぼ・野暮」とか多くの罵倒語、侮蔑語があるけれど、こういう言葉だって会話の状況によっては罵倒や揶揄を意味するとは限らない。

ちょいと小粋な姐(ねえ)さんが「もう馬鹿なんだから」「ほんとにヤボなひと」なんて少し甘えた調子で拗ねて、上目遣いににらみつけたとする。そんな目にあったら男子たるもの、大いに鼻の下を伸ばしていい。要するに言葉ってやつは、それが発せられたときのシテュエーションや表情、調子によってまったく異なる意味合い、ニュアンスを放つ。

田舎もんにしたところで、したがって充分肯定的な色彩を帯びて用いられる場面も、理論的にはあり得るはずである。‥‥考えにくい、思いつかない、少なくとも筆者の場合はそうであると告白せざるを得ないというだけで。

前置きが長くなった。それでは田舎もんとはどういう種族か。

井の中の蛙。狭い了見、ちっぽけな経験をタテに何を勘違いしているのか、分かった気になっている者。これが田舎もの、まずは第一の定義。

自分の知るものこそすべてと思い込む了見の狭さ、基準の歪みは噴飯ものではあるけれど、どこか滑稽と哀愁が漂うのも事実。つまり人間、ここまでは誰しも陥りがちな罠だ。

しかしこの第一の定義で我が身をかえりみ、苦笑のひとつも浮かんでくるというなら、すでに頑なな了見の狭さから脱しているとも言える。つまりここまでは「一過性田舎もん」で軌道修正可能ということになる。

本物、真性いなかモンとなると、この定義におとなしく収まってはいない。カエルならカエルらしく片隅でケロケロやっている分には可愛らしくもあるけれど、田舎もんは増長する。

そうして多くの場合、お山の大将として現われる。これはもはやカワイイとは呼べない。お山の大将、あえて「いなかモン」と呼ぶのはこの範疇と言ってもいい。

もう一度強調しておこう、ここがお山の大将とそれ以外を分かつ大きな差異だから。「真性」田舎もん、お山の大将は決して我が身をかえりみたりしないのだ。

決して我が身をかえりみることはないから、お山の大将はまず先験的に、アプリオリに、何はなくとも、何があっても、疑いの余地なく、とりあえず、われこそ一番なのだ。意味もなく、わけもなく、ただただわれこそ一番なのだ。

当然の帰結として、なんの根拠もなく上から目線で人を眺める。その裏返しに、自分の立場を揺るがしそうな可能性に対しては本能的な反発と嫌悪を示す。要するに対人関係の基本は上下関係で、共感を抱き合う関係軸、対等な共生軸とは無縁なところに田舎もんは棲息している。

彼らには「少しご自分を客観的に見られてはいかがですか」など間違っても言わぬことだ。怪訝な顔になるかいっそう怒りをつのらせるか、いずれ事態の改善は望めない。むしろ逆効果になるのがオチだ。たとえ身内であっても何であっても。

真っ当に自らをかえりみる、その必要を感じない者はかえりみる方法さえ知らない。「反省」という言葉を覚えれば、自分では充分かえりみているはずだと思い込んでいるのも多い。さらに厄介なのは自己陶酔の混ざるタイプで、自分ほど自分に厳しく自己をかえりみている者はいないなどと勝手な思い込みの内に生きているのもいる。

この手合いは謙虚さと内省、修養、悟り、認識においてわれこそ一番と固く信じて疑わない。宗教界、教育界をはじめ、道徳を推し広めようなどとうっとりしている田舎もんを思い浮かべていただければ、思い当たる顔も多いだろう。

田舎もんと、それではどう付き合っていけばいいのか。こう考えるだけで気が滅入る。

‥‥人は多様な価値の中でのみ洗練される。人は人によってのみ洗練される。そのためには外部の視線で自らを検討してみることだ‥‥。

‥‥と話したって意味はない。何を言っても、自分の問題としてかえりみたりはしないのだから。下手すれば、絶えず外部の視線で点検してきたからこそ今の私がいる、など言い出しかねない。もちろん真顔で。

逃げるしかない。‥‥正直なところそう考えざるを得ない。ライオンを調教するより、メドゥーサと口づけするより、田舎もんに田舎もんと自覚させる方が難かしい。

ならば、田舎もんにずかずか踏み込まれる前に、とにかく逃げ出す。‥‥いつまで、どこまで逃げられるか不安に駆られながら。ホントを言えば、いずれ逃げきれないだろうと覚悟しつつ。

世界中どこでも田舎もんの増殖ぶりはおびただしい、それが実感。逃げきれなくとも逃げるしかない。今日も今日とて「いなかモンは、ヤだねぇ」。

笑うしかない。

画伯、かく語りき » 遊歩舎
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