セージさんのこと:パリの日本人

今までの人生でもう充分に飲んだってことなのかね、アルコールを欲しいと思わないんだよ。‥‥いつになく待ち合わせに遅れてきたセージさんは照れたように笑うと、カフェクレームを注文した。

遠慮なくアペリティフをやってくれ、キミの飲むところを見ていた方が安心する。だいぶ、回復してきたんだ。‥‥と言う声はすっかり嗄れていた。

退職して暮らし始めたパリにほとんど知人のいないことを知ると、セージさんは何かと声を掛けてくれた。それがさまざまな人びととの出会いになった。老若男女を問わず、本当にさまざまな。

なにかと言えばアペロ、夕食会に誘い出してくれる。引っ越してきたアパルトマンがたまたまセージさんの住まいに近く、メトロを降りた駅近くのカフェで、ふたり「締めの一杯」をやるのもしばしばだった。

昼から夜まで、街をほっつき歩いては店に入り、を繰り返し、だらだら飲みつづけたこともある。意味もなくだらだら飲む。こういう時間を共に送ることの出来る存在、それが嬉しかった。

パリに暮らすことは緊張を強いるばかりではない、肩から力を脱いていい、そもそもそれほど特別なことじゃない。当たり前に酔っ払っていいじゃないか。‥‥パリにソフトランディング。セージさんのお陰の大きさを感じる。

高価なワインなんて必要ない。一緒に飲んで旨いと感じられるワインがあればいい。コート・デュ・ローヌは最高だ、気取らず邪魔せず、すとんと胸に落ちてくる。‥‥コート・デュ・ローヌの赤をこよなく愛したセージさんがカフェクレームを頼んだ日、会話らしい会話を交わした最後となった。

実は彼について、語るほどの材料は持っていない。知っているつもりのことも穴だらけ間違いだらけかもしれない、それでもこうして綴るのは、こういう人物がパリにはいたことを留めおいておきたい、その一念からだ。

切れ切れに耳にした、あるいは耳にしたつもりになっている断片をつなぎ合わせてみる。

東京の新劇の養成所にいながら、どうにも飽きたらないものを感じていたセージさんは、ある日思い切って渡欧を決意する。確かな年代を聞いた覚えはないが、1970年代のことだろう。

フランス人女性と恋に落ち、結婚。二人の子どもに恵まれる。‥‥しかしね、彼女、癌にかかっちまった。宣告されてから早かった、若かったから。あっという間に看取ることになった。頭の中が真っ白のまま時間だけ経っていった。

奥さんは小学校の教師だったと聞いた。‥‥彼女に定職があったから、ぼくは不安定なことやっていられたんだ。どうしよう、って目をつぶったままの彼女を見つめていたら、幼い子どもたちだけはちゃんと育てよう、それだけは、っていう気になった‥‥。

すっぱり演劇やめたよ、そして画商になった。現地採用で日系企業に就職しようかとも思ったけど、そんなに簡単に雇ってくれるところはないだろうしね、だいいち育児の時間が自由に取れない、少なくとも当時は。そこで画商。もともと絵が好きだったし、パリには世界の絵が集まってくる。一匹狼で自由もきく、日本からの需要も多い‥‥。

勉強したよ、めちゃくちゃ。画家や画風に惚れ込んじゃいけないんだ。ただ時代の求める絵画の傾向を読み解いていく、そのためにはとにかく絵を見る、数多く見る。パソコンの操作も覚えて、無理して買った、まだ普及したての頃だよ。これだと思える絵を見つけては日本の画廊やコレクターに紹介するんだ。

パリで仕入れて東京で売る。東京で頼まれてパリで探す。行ったり来たり、夢中の日々だった。画家が有名になってとんでもない値段をつけるようになると、もう手には負えないから、いつでも才能発掘。一枚でも多くの絵を見る。‥‥そうして子どもたちを育てた。学校近くのマンションに住んで料理もしたし、宿題も見てやった、見られる範囲内でね。

今は業務縮小、昔からの付き合いのところの商売をこぢんまりやっているだけ。フェイドアウトの時期だな。‥‥父親業もお役御免、友だちと楽しく過ごすのが日課だよ。

妙にシキイの高いヤツ以外なら誰とでも付き合うよ、ぼくは左翼支持だけれど別に右翼だって構わない、無神論者だけれど宗教家だって構わない、現に付き合っているよ、だっておもしろいもの。

ヒトの持っている息吹のようなものが好きなんだ。ヒトとヒトが出会えば、そこで何かが起こる。それが好きだし、それを見ているのも好きなんだ。

欲も打算も功名心もなくヒトに接し、場をセッティングしては出来ることを手伝う。見返りを求めてのことではないから、またヒトが集まってくる。こうして、さらにネットワークは広がっていく。

舞台人であれ料理人であれ学者であれ、パリでなにかしら自分を生かしたいと思えばセージさんに相談する。彼がその気になればそういう場を設定してくれる、ネットワークを通じて紹介や呼びかけもしてくれる。

とりわけ若い人たちの間では伝説的な人物だった。ということまで聞こえてきたのは、彼の歿後しばらく経ってからだった。

人生は予想外の展開の連続だ。もちろんセージさんにとっても。

夢中になった芝居の世界がパリという舞台に呼び込み、ひとりの女性の伴侶として、右往左往する父親として、研究熱心な美術商として、そして求められるまま人びとのチャンスを作り出す者として。役割、役まわりがいつも彼を追いかけ、それに応えてきた‥‥。

「締めの一杯」のカフェ。テラス席左端がお決まりの席だった

役まわりに応えつづける。セージさんの本質はヒトを愛してやまない、いくぶん淋しがり屋の役者だった。

全身の倦怠感と咳がいつまでもつづくから、ちょっと帰国した機会に紹介された病院で精密検査を受けたんだ、それも2ヵ所でね。だけど言うこと違うんだな、それぞれ。どちらも原因不明ってとこは一緒だけれど。今度はこちらの病院で検査してもらう。なあに、だいぶ調子は戻ってきたんだがね‥‥。

別れ際、テラス席から立ち上がると、少し黙ったままこちらを見ていた。今になって束の間のその沈黙が気にかかる。幾度となく「締めの一杯」を交わしたカフェの店先で。