道徳的地平と法的地平と

何年前になるだろう。

日本の報道も世界的なレベルから見れば、まだまともに機能しているとされていた頃。地上波全国ネットのテレヴィでも、久米宏や筑紫哲也のようなニュースキャスターが当たり前に茶の間に登場していた時代のこと。

未成年の少年が加害者となる兇悪犯罪のつづいたことがあって、筑紫哲也の番組で、加害者と同年輩の少年たちを集めた座談会が開かれた。席上ひとりの少年が「どうして人を殺してはいけないのか」と問いを投げかけ、良心的なキャスターは、うーんと唸った。

以来この番組では、何回か特集を組んだ。‥‥教育者、哲学者、心理学者はじめ評論家、知識人、オピニオンリーダーがゲストに招かれては「他人の未来を奪う権利は誰にもない」とか「死を自らの問題として考える意識の重要性」とか語られた。

番組の誠実な姿勢、思いがけぬ「基本的な」問いかけに正面から向き合おうとする対応には好感を覚えた。しかし、好感を覚えながら、いささか違和感を禁じ得なかった‥‥。

ここで語られるべきなのは、もっと別なことではないのか。

死とは何であり、殺すとはいかなる行為か。‥‥その考察はもちろん大切だけれど、それは個人個人が時間をかけて負うべきテーマであって、ここで語られるべきはそういうレベルではない。

‥‥どうして人を殺したらいけないのか、この場でそれを語り尽くすことは不可能だし、その必要もない。‥‥その問い掛け自体が逆転している、そう少年に語りたい。

お互いに殺し合わないと約束をすることで、人間は他の人間と共に生きる「共同体」「社会」を作り出して来た。お互いにいつ殺されるか分からないんじゃ危なくって、一緒に暮らすなんてできっこない。社会が成り立たない。これが最低の約束事。だから、この約束を破ったら社会的営為を封じる。ブロックする。

正しいか正しくないかには、さしずめ関係ない。善悪正邪を論ずるのとも違う。現に殺すことは正しいと考える人もいる。それはそれで意味もあれば、理由もあるのだろう。だけど、ホントに殺すことは許されない。‥‥われわれの社会を守るために。

これだけ言えばいいのではないか、と感じた。

これだけ、という意味はこう答えることが「死とは」「殺すとは」の本質的な意味を語ってはいないからだ。哲学的な命題、道徳的な課題、あるいは宗教的な思索としての「解答」にはなっていないからだ。

しかし、あえて、いやだからこそ、これでいい。ここで大切なのは本質的な「解答」ではなく、普遍的な「合意」についての確認なのだ。

思想とか価値観とか世界観とか、個々人のいわば内面に立ち入る領域の「解答」を、テレヴィのニュースショーでゲストを呼んできてお喋りしたくらいで出せるわけはない。誠実な対応のつもりが、場合によっては救いがたい傲慢に転化しかねない。

語られる軸、思考の方向性をまず整理してかからねばならないのではないか。そんなことを感じた。

‥‥今さらこんな古い話を持ち出すのは、ここの混乱がますます混迷の度合いを深めていると感じられることが多いせいだ。

個々人の内面にかかわる問題をここではざっくり「道徳的」地平、社会生活にかかわる問題、それゆえ社会構成員にとって普遍的たる合意事項を「法的」地平と呼ぶことにする。

政教分離、聖俗分離の思想と言い換えてもいい。宗教的・道徳的・内面的価値と社会的・法的・普遍的価値。この差異の認識は近代化の過程で、いかに重要であり、かつ困難を伴っていたことか。いくつか具体的に個人的な見解を記しておこう。

かつて「浮気」と呼ばれていた程度のものが「不倫」「不適切な交遊」などと首筋の寒くなるような言葉に置き換えられ、ゴシップ、スキャンダルで社会的な地位を追われる。‥‥これは仮に道徳的地平から出たものであったとしても法的地平ではあり得ない。

不倫廃絶を訴える宗教者や道徳的リーダーならいざ知らず、芸能人が「芸」を発揮する場を奪われ、政治家がその政見、政策とは無関係に、その資格を剝奪されるのは道徳的地平と法的地平の混乱を意味する。道徳的地平を目障りな人間の追い落としの術(すべ)に用いる、不健全でさもしい社会を映し出していると言ってもいい。

売春は罪か。これは道徳的命題であって法的命題ではない。したがって法的、社会的な契約の対象として考えなければならぬのは売春そのものではなく、売春の周辺に介在しがちな、弱者に売春を強制するシステムとか暴力に対してということになる。

ヘイトスピーチ。社会的多数者、強者による脅迫行為は、道徳的にどうかなどという論議以前に、法的地平に立ってただちに排除されなくてはならない。他の人間が共に生きる、社会の成り立ちにかかわる普遍的な合意に背くものである以上。

共謀罪。個々人の思考内容をとらえ内面に入り込む時点で、法的価値を否定、法的地平とは無縁、逆転した「法」とでも呼ぶしかないシロモノであることは明らかだろう。法的価値を追求する者がこの「法」を作成・運用するとすれば、それは法的価値の自殺行為に他ならない。

死刑制とその執行についても触れておく。

先進国を自任する国ぐにの中にあって、死刑制度が揺るぎなく機能し、国民の支持も高い特殊な国が日本だが、その支持の根拠として、被害者や遺族の無念を想うとき犯罪者を極刑に処すべき、という理由が当たり前のように掲げられる。

これは「道徳」的であっても、「法」的ではない。道徳的というより情緒的と表現すべきだろうが、ともかく法的ではない。

こういう理由から死刑が確定し、執行されるなら、日本では「法」が法的に運用されていないことになる。公的な約束事のカタチを取って私憤を晴らす制度と呼ぶのがふさわしい。

もっと意地悪く言えば、自分に危険の及ばぬところで、お上に敵討ちをお願いする。時代劇に登場する「哀れな町民」の意識から一歩も出ていない。

自立した市民が共に生きる。互いの内面に立ち入ることなしに存在を認め合う。内面とは個人的な信条や思想である場合もあれば、宗教や世界観であることもあろう。それが何であっても構わない。異なる内面を持った個々人が共生するとき、「法」が生まれる。

哀れな町民が、水戸のご老公だか暴れん坊将軍吉宗だか知らないが、お上の「情」にすがるのではなく、自立した市民として「法」を執行する、させる。「法」からの逸脱を誰もが納得できる論理性で明らかにし、公正に実施する。

共に生きるための社会、そのためのルールが「法」であり、それを脅かす者への処遇が「刑」であり、被害者や遺族の情緒的満足のための個別的・内面的な心情で処刑されるべきではない。