過激なる浦島太郎めざして

少年老いやすく学成りがたし、とは耳にタコが出来るほど聞かされてきた。さすがにこの歳にしてなるほどと身に沁みる。膨大な知の体系を前に、心細い想いでたたずむと目眩をおぼえる。

もっとも、根がそれほど謙虚にも慎ましくも出来ていないから、こうべを垂れて目眩がやわらぐや、そんなものかなと考え直してもいる。身の程知らずの謙虚さを装うより、いっそこう居直って大風呂敷をひろげる方が、よほど性に合っているのではあるまいか。

60年以上も人間やってきて、還暦と呼ばれるのはダテじゃない。およそ人間的な感情、感覚、感受性、すべて記憶の引き出しにしまいこんである、と。

それほどの体験があるのか、とただちに反論を受けそうだ。

それほどの体験などあるわけない。実際の体験など微々たるものに決まっている。当たり前の話だ。人を殺したこともなければ飢えたこともない。世紀の美女と夜逃げしたこともなければ鮫に食いつかれたこともない。人魚を見かけたことも気球で旅行したこともない。リレー競走の選手に選ばれたこともなければ相対性理論を学んだこともない。

しかし想像力はある、誰もがそうであるように。

60年も生きてきて、語られ歌われ描かれてきた人びとの体験を想像する能力がないなら、壁にうずくまって黙っているがいい。ひねこびたソクラテスと一緒に毒杯でもいじっているのがお似合いだ。われら過激な浦島太郎は、記憶の玉手箱から世界を引きずり出す‥‥。

6月と聞くと、鼻先をくすぐるにおいを感じる。新宿三丁目紀伊国屋本店ビル地下街に漂うカレーの香り。地下鉄の通路を歩いていると、つんと抜ける香り。スパイシーな刺激に胃がきゅんと動く。

すると、それに促されたように1970年を挟んだ何年かの街の情景が、自動的にアトランダムに立ち上がってくる。

新宿は特別な街だった。

西口地下広場のベ平連フォーク集会、東口ロータリーではフーテン族が野宿し、花園神社の境内にはアングラ劇団の興行用テント、反戦反安保市街闘争では学生と機動隊の主戦場になった。

明治通りの映画館アートシアターとその地下、蠍座ではヌーベルバーグ、篠田正浩、若松孝二。末廣亭では小三治、志ん朝。三越裏には不思議な人びとの出入りする喫茶店がいくつもあって、ゴールデン街に出没する酔客たちは尖がっていた。モダンジャズとビートルズと藤圭子が同居していた。

年度はじめから夏に向かう前の雨季。6月は特別な季節だった。

湿った大気は重く、じっとり熱気を孕んでいた。孕んでいながらかっと照りつけるにはいたらない。ぐずつき気味でも重い雨滴となって降り注ぐにはいたらない。本格的な何事かの到来を予感させながら、いまだ到来せず。焦らされているような、そそのかされているような‥‥沸点に向けた奇妙な均衡のうちにあった。

親のスネかじりのハイティーンにふさわしい季節だった。そんな季節には、ただ新宿に身を置き、歩きまわることに意味があった。

紀伊国屋書店で棚から棚へ、美術手帖から創元推理文庫へ、白水社の新しい世界の文学から旅行ガイドブックへ、2時間も3時間も時間をかけて結局何も買わぬことも多かった。

思い切ってやっと一冊買い求め、それでも手許に少し小遣いのゆとりがあれば、いそいそ木馬に向かう。

壁一面にストックされたレコードのコレクションで定評のあったジャズ喫茶では、客のリクエストしたアルバムを主体に曲を流していた。デイビス、ビル・エヴァンス、コルトレーンを多く聞いた気がするのは、当時の客の好みの傾向を反映していたのだろう。

薄暗い照明の下で吸い始めたタバコ、セロファンで覆われた紙のパッケージからハイライトを一本引き抜くと、灰皿の上にセットされていたマッチを擦る。アイスコーヒーを注文し、買ってきたばかりの本をひろげる。

最高に贅沢なひとときだった。少し背伸びした気分を味わうひとときでもあった。つげ義春の「ゲンセンカン主人」に呆然としたのも、サルトルの「自由への道」に溜め息をついたのも、ここ木馬の巨大なスピーカーの前だった。

店の入っているビルは靖国通りに面していて、そこは都電のターミナルになっていた。11は月島行き、12は両国行き、13は水天宮行き、3本の路面電車がひっきりなしに発着する。蜘蛛の巣のように電線が張りめぐらされ、入り組んだ電線にパンタグラフが触れると火花を発した。

美しいと感じた。生きている街の脈動を感じた。都市のダイナミズムを感じた。モンドリアンの絵画の世界だと感じた。

そして、「今」「ここ」という場は、世界につながっている。世界のうちに呼吸している、とわけもなく昂揚感を覚えていた。世界の全体性と関わりあっていると意味もなく発見した気になっていた‥‥。

半世紀前のこの昂揚感を鼻先で嗤(わら)うのは簡単だ。しかし、それをやっちゃあおしまい、という気がする。6月の新宿。紀伊国屋地下のカレーの香りが漂ってくる限り、このときの想いに向き合っていこう。

あのときの「今」「ここ」に、「半世紀後」「パリ」を響き合わせてみよう。

想い起こすことで。

まどろみと忘却に立ち向かうことで。

過激なる浦島太郎めざして。

あの6月、あの新宿。地下街に漂うカレーの香り。実際に口にすることはなかったせいだろうか、その香りはますます強く、スパイシーに、食欲をそそる。

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