市庁舎と広場と

リヴォリ街に立って市庁舎と広場を眺め渡すとき、パリという都市の鼓動、その生命の響きのようなものが伝わってくる。1830年の七月王政以前、この広場はグレーヴ広場と呼ばれていた。

グレーヴ(grève)を仏和辞典で引くと、①ストライキ、②砂浜、③パリ市庁舎前広場の旧称、と並べられている。‥‥まさしく三題噺。この広場の歴史をひもとくにしたがって、この単語の持つ意味は繫がり合う。

まず、ここはセーヌに接してなだらかに広がる砂浜で、右岸の荷揚げ場として発展した。穀物、木材、ワインなどの商取引の中心地となり、これを取り仕切っていた水運業組合が市の行政を担うことになったのが13世紀のこと。

セーヌを挟んだ街並みの奥に見えるノートルダム大聖堂が完成したのもこの頃だから、王宮とは別に「聖」と「俗」の二つの拠点がこの時期に川の両岸に成立したと考えていい。ちなみに、現在にいたるパリ市の紋章(帆船。後に「たゆたえども沈まず」の銘が付された)は、この水運業組合の紋章に由来する。

経済活動の中心となった広場に面して、各種同業組合の事務所があったから、荷揚げ人足、石工、大工など仕事を求めて多く集まってくる。そこで「グレーヴをする」という表現の誕生となるわけだが、当初の意味は「仕事を探す」「グレーヴ広場で職を待つ」だった。

それが「ストライキをする」になったのは、19世紀半ばくらいだという。19世紀半ばと言えば産業革命のただなかで、職人から賃労働者へ、労働の質と在りようが変わり、雇用形態も大きく変わる時期にあたる。言葉の意味の変容もうなずける、というわけで三題噺。

市街の中心である広場は交易と産業の場であると同時に、祝祭と騒擾と、あまたの血の流れる場でもあった。処刑の場としてのグレーヴ広場の地位は高く、とりわけ大革命以前は他を圧倒し、ここで執行されるものが多かった。

処刑の場としての地位が高い、というのはあまり名誉な表現に聞こえないかもしれない。しかし、共同体のおきてに背く者を公開の場で身体的に罰する、そのプロセスそのものが祭りであり政事#まつりごと#を意味していた。その意味で処刑の場は「祭りの場」と呼ぶのと等価だった。

当時の、冬の夜空を焦がす民衆的な祭りとして知られる「聖ヨハネの火祭り」、その祭り気分を盛り上げるとでもいうように、祭り前夜に執行された処刑の記録も多く残っているとある。‥‥火と血と、古今東西を問わず民衆を熱狂させる祭りはここで演出され、巨大なエネルギーの渦となって発散されていったことだろう。

一般市民は絞首刑、貴族は斬首刑、宗教的逸脱者は火刑、殺人者は車輪責め、不敬罪は四つ裂きとバラエティに富んだ公開処刑は、統治する側にとっては恰好の見せしめ、統治される側にとってはとっておきの見世物となったに違いない‥‥。

サッカー選手権が行なわれれば同時中継の大画面が登場し、冬にはアイススケートリンクが設置される。世界中から集まったカメラ片手の観光客が行き交い、買い物帰りのマダムが家族と落ち合う。回転木馬に乗せた孫を目で追いながら、クロスワードの答えを考えている老紳士の脇を、哲学の点数の悪かったことなど忘れ仲間と待ち合わせるために少女が駆け抜けていく。

人びとの「現在」が展開、交叉する石畳に、数限りない過去の場面が幾重にも重なり合っている。ちょっぴり血の気の多かった男の首が飛んだ場所で、恋人たちは愛を語り、黒ミサを行なった異端者の焼かれた煙が立ちのぼった同じ空を、男の子の手放した赤い風船はふわりと舞っていく。

14世紀以来、紆余曲折を経ながらこの広場は市政の中心だった。バスティーユ監獄陥落直後の1789年、ルイ16世は市民との和解を示すべく市庁舎を訪れたし、1871年には対プロシア戦争で早々に降伏した政府に怒った市民たち、コミューヌがここを本拠に立て籠り、焼け落ちもした。

エピソードには事欠かない。

ときは流れない、ときは降り積もる。
何年も前テレヴィや雑誌の宣伝コピーで目にして、記憶に残った言葉が甦ってくる。こうして広場に立ち、市庁舎を見上げていると‥‥それが実感として沁み込んでくる。

ときは流れない、ときは降り積もる。

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