バスティーユ監獄の残像を求めて

世界史に画期をなすフランス大革命は、1789年7月14日民衆のバスティーユ監獄襲撃に始まる。このよく知られた大事件も、それではバスティーユ監獄とはどこにあって、どれくらいの規模だったのかとなると意外に知られていない。

新しいオペラ座が一角を占めるバスティーユ広場に出向き、中央にそびえる自由の守護神をいただいた円柱を目のあたりにすると、ああここはまさに革命の聖地だとの想いにとらわれる。しかし、この円柱は1830年七月革命の記念碑である(七月の円柱)と知ると、革命は革命でもそもそもの発端となったあのバスティーユ監獄はどこなのだろう、思わず周囲を見回す。

そんなときにはまずメトロ5号線、ボビニ行きプラットフォームへ。ここの壁に、バスティーユ監獄の位置と概要の説明板が掲示されている。

八つの突起物のように塔の示された、かつての監獄。その監獄を囲む壁の一辺に沿った形で、このプラットフォームはのびているらしい。その証拠に、ベンチのすぐ脇に石壁の基底部がわずかながら露出していて手摺りで囲われている。監獄本体とは言えないまでも、その名残をやっとここで感じ取れる。忙しく行き交う乗降客のほとんど誰も見向きもしない、ささやかなものではある。しかし、これぞ偉大な歴史の生き証人なのだ。

プラットフォームの掲示板で、現在の広場中央にそそり立つ七月の円柱との位置関係を確認してから広場に戻ろう。

現在の広場の西側に接する形で描かれていたから、四区、十一区、十二区の区境に位置する広場を四区側に渡って痕跡を探す。‥‥するとありました。広場に面してサン・タントワーヌ街とアンリ四世大通りの間に位置するカフェ(バスティーユ広場3番地)の壁にプレートが。

プレートには1370年に建設されたとあり、もともとパリ西部を守るルーヴルに対して、東部を守る要塞として造られたことを考えると、14世紀末の時点でパリ市の市域はここまでだったと実感される。市域が膨らむにしたがって、要塞から監獄へと機能を変えていった。


かの鉄仮面が入っていたのもここ。ルイ14世の時代、人前に身をさらすことを一切禁じられた高貴な囚人がいて、幽閉されながら特別な待遇を受けていた。この謎めいた人物は伝説化し、刺戟を受けた何人もの作家がいくつもの作品に仕立てているが、個人的にはやはりデュマ、ダルタニアン物語で語られる鉄仮面像がもっともスキャンダラスで興味深い。もしかしたら、と思わせるところが心憎い。

脱線ついでに言えば、マルキ・ド・サドの収監されていたのもここ、それも革命と同時期に当たる。彼はここで制作に励み、民衆襲撃の日にも囚人として立ち会ったとも、その直前に他に移されていたとも言われる。囚人として立ち会ったというのは史料的に否定されたようだが、1789年7月のバスティーユに、サド侯爵と市民革命が接点を持つのはなんとも興味深い。

プレートから広場の方に目をやると、細かな石畳の中に四角く大ぶりな色合いも明らかに異なる、環状の石の連なりが浮きあがって見えてくる。

そうそう、これこれ。

これぞ話に聞いていたバスティーユ監獄の痕跡。プレートに示されていた塔の輪郭部分の円形だと分かる。

広場からサン・タントワーヌ街に折れてすぐのバス停留所を囲むような円形は、ここに立っていた陰鬱な監獄の塔の存在を指し示している。そそり立っていたであろう姿を思い描きながら進むと、ジャック・クール街との曲がり角、サン・タントワーヌ街5番地のビルに、再びプレートを発見。「ここにバスティーユの前庭があった」とあり、ここから民衆は監獄になだれこんだとある。

つまり、バスティーユ広場の西側一部、サン・タントワーヌ街、ジャック・クール街、アンリ四世大通りに囲まれた四角形の部分が、ほぼかつての監獄の聳えていたところと看做していいようだ。

意外に規模の小さなものだったのだな、というのが第一印象。

しかし、もともと14世紀に建てられた要塞だと考えれば、こんなものだったのかもしれないと納得もいく。

最後に、バスティーユ広場を背に風格あるアンリ四世大通りをメトロのシュリ・モルラン駅、セーヌのすぐ手前にあたるアンリ・ガリ緑地まで足を伸ばしていただきたい。片隅に、バスティーユの塔の礎石にあたるほんの一部分が運び込まれ、無造作に積み置かれている。圧政の象徴として襲撃、破壊されて以来、一世紀も経過した頃、建設工事中に掘り起こされたものだという。

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