ピカソはピカソである:青の時代

ピカソの父は美術学校の教師だった。まだ少年だった息子の技倆を見て、完全に自分を超えたと悟ったとき、自らの絵筆を折り、以後二度と絵を描くことはなかった‥‥。

もしかしたら伝説か風説の類かもしれない。出来過ぎたエピソードのようにも感じられる。だが才能とは冷酷なものだ。少年時代すでに父を超え「父殺し」を宿命づけられていたのは、説得力のある話なのではないか。

スペイン生まれのピカソがはじめてパリに出てきたのは、19歳になる年、1900年のことだった。

ベル・エポック、第三共和制下のパリは「光の首府」としてまばゆい光彩を放ち、世界中から人びとを吸い寄せる一方、近代都市の持つ底知れぬ暗さを醱酵させていた。

モンマルトルの丘、洗濯船(バトー・ラヴォワール)と呼ばれるアトリエ集合住宅にころがり込んだピカソも、不安と功名心、希望と絶望の狭間に揺れ動く多くの若者たちのひとりだったことだろう。

こういう彼の心象を描くのに選んだ色彩は「青」だった。貧しい仲間、明日の展望を見出せぬ者、アルコールに溺れた者、街の弱者、敗残者たち。はたち前後のピカソが「青」のモノトーンを中心に絵を描いていた時代は「青の時代」と呼ばれる。

ピカソ自身も後に語ったというように、「青」は若く貧しい彼が受容せねばならぬ「痛み」の色彩であったのかもしれない。ただ、過剰にこの色彩にとらわれては、ピカソという画家の本質を見失ってしまいそうな危険も感じる。

青色であれ、それにつづく薔薇色であれ、ピカソにとって色彩は、それほど本質的な意味を持っていなかったのではないかという印象を拭えないからだ。

彼の絵のダイナミックな構成を目にすると、色彩を超えてまず形態が用意されていたのでは、と感じる。モノクロ写真に対する想いから写真に惹かれることになった者の感想に過ぎないと言われればそれまでだが。

‥‥ピカソ「青の時代」の代表作に「La Vie」がある。生命とも生活とも人生とも訳せるタイトルの絵は、青くくすんだ黄昏時のアトリエ内を映し出している印象を受ける。いわば、彼の闘いの場であり、安らぎの場であり、生きる場だ。

左半分に裸で寄り添う若い恋人たち、右手には赤児を抱えた女が大きく描かれている。抱擁する恋人たちと赤児を抱えた母親——こう記すと明るい輝きに隘れた画面を思い浮かべがちだが、この絵の発する雰囲気はその正反対のものだ。

オルセー美術館の特別展で思いがけず、この何十年にもわたってずっと気になっていた絵画のオリジナルと対面することが出来た。

若いな、と感じた。こんなに若かったんだ、と思った。

はるかに還暦を越えたオヤジが、はたちの剝き出しの想いに接した第一印象。ピカソの絵の放つ若さと、その絵を気にしつづけていた自らの若さとが入り混じる。

恋人たちを覆う底知れぬ憂愁、とりわけ端整な青年の顔には一段と深い青が宿り、蒼ざめていると表現するのがふさわしい。胸に赤児を抱いた女は瘦せこけ頰骨が飛び出し、細い首は硬く筋張っている。

恋人たちに一瞥を投げる女の表情は尖がっていて、視線にさらされた恋人たちの抱擁は寒々しく、すくみあがっているかのようだ。この青年、虚ろな表情の端整な青年は、ピカソの親友カサへマスだ。

共にスペインから出てきた画家仲間の彼は、パリで自死した。

若く貧しく無名のまま逝った友人への愛惜が、この青色の世界には縫い込められている。‥‥が、それと同時にピカソの自意識を感じ取らぬわけにはいかない。

断じて、俺はカサへマスではない。

愛惜と同時に訣別がここにはある。貧しさも憂いも痛みも、彼を包み込む現実ではある。現実ではあるけれど、もはや彼の内側に入り込みはしない、彼をねじ曲げはしない。すでに客体化されている。

青の時代。ピカソはいまだ充分にピカソではなかった。しかしながら、ピカソはピカソたる自らを胚胎し、準備していた。まさしくピカソは疑いようもなくピカソだった。

若さが眩しい。

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