アトリエに暮らす

ひょんなことからパリのアトリエで暮らすことになった。

アトリエというとなにやらカッコよく響くかもしれないが、画家が絵を描くための要は作業場、制作用スペースであるから殺風景と言えば殺風景、本来的な住居用スペースとはだいぶ趣を異にする。

なんと言っても最大の特徴は、二階分吹き抜けになった大窓で、これが気に入った。西や南から射し込む直接的な陽光を避け、北東向きに作られているので、安定し落ち着いた明るさに満ちている。それが何にも替えがたい魅力だと感じた。しかも窓の外は、とても市内とは思えぬ緑の広がりと来ている。ひとの行き交う賑やかな街角がすぐそこだというのに。

‥‥2000年に亡くなった加藤一画伯が40年に及ぶ歳月、毎日通い制作されていたという現場。そううかがってあらためて周囲を見回すと、実際にお会いしたわけではない氏の気配を感じ取れる気がしてくる。画家の魂はアトリエにこそもっとも大きく宿るのではないだろうか。壁に架かる何点かの作品は、いずれも「風」をモチーフとした大作だ。

画伯は学生時代、圧倒的な力倆を誇る自転車乗りだった。オリンピックの代表候補に内定するほどの実力を持ちながら、生家の経済状態が傾いてプロに転向、学士選手として競輪界で一世を風靡した。自転車と並んで、もう一つ子どもの頃から好きだった絵筆を握る感触を忘れられずに‥‥。

事故などつづいて身も心も傷を負い、転身を考え始めていた頃、その感触が甦る。ひとの運命の不思議さはこんなところにあると思うのは、こういう時に、あのバロン薩摩と知り合う、その縁のようなもの。日仏文化交流の推進者であった薩摩は渡仏をすすめ、彼は画家としての本格的な修行をパリで始めることになる。

自転車と絵と、加藤は二つの人生を生き、それぞれを燃焼した人です。わが大家さんとなったマダム加藤は、そう語った。自転車に乗って見える光景、その疾走感、それが彼のテーマ。そういう意味ではひとつのものを別の生き方で追求しつづけた人でもありました。文藝春秋から一代記を出していただいたんですがね、そのタイトルも「風に描く」、加藤にぴったりでした。

‥‥ここで、ぼんやりとした記憶が立ちのぼってきた。

まだ勤め人だった頃、幾度か文藝春秋を訪れたことがある。紀尾井町の社屋は玄関を入ってすぐ、大きな喫茶店のホールのような打ち合わせスペースがある。その壁に畳三畳分くらいの大きな絵が飾ってあって、テーブルを挟んで話す相手の背後に広がる画面を眺めるともなく眺めていた。それはこのアトリエに掲げられた絵と、大小の差こそあれ共通するものではないか。

その絵は加藤のものです、まさにここで制作されたものです。あまりに大きいので部分に分けて描いたんです。未亡人の言葉に驚く。驚きを通り越して呆然、と表現したい。うろ覚えながら実際に目にしたことのある絵の描かれた、その場所に暮らすことになろうとは。

画集以外のもので加藤の本はもう一冊あるんです、自転車好きだった永六輔さんと対談したのをまとめたものが。永さんがここを訪ねてくださって加藤とお話ししたんです。同年代で加藤は神田の生まれ、永さんは浅草の生まれでしたから、もうべらんめえ口調になって高笑い、すっかり意気投合して、見ているこちらも楽しかった‥‥。

生活にラジオが生きていたから、永六輔は特別に身近な存在だった。家人を除けば、一週間のうちもっとも多くその声を耳にしたのは彼だったのではないか、と思えるほど。

作詞家、放送作家、芸能評論家、エッセイスト、さまざまな肩書きを付されるが、日本国中を旅して歩いた氏は地に足のついた該博な知識で、何より民俗学・社会学のフィールドワークの実践者として刺戟的だった。そんな氏がこの場に訪れたことがあると聞いて、なおさら驚いた。

戦争で召集令状、赤紙が来ますでしょ、そうすると隣近所が集まってきて「万歳、万歳」なんて送り出す。でも神田じゃ兵隊に行く息子に母親が大きな声で「いいかい、薩長の始めたいい加減な戦争なんかで命を落とすんじゃないよ」って言う。みんな聞こえていて聞こえないふりしているんですって。そんなこと言い合いながら、からから笑い合っていましたね。

フランス暮らしが半世紀に及ぶ年配の日本人女性の中には、信じられないほどの傑物がいる。昭和30年前後、男女平等になったとは言え、息苦しい日本社会から脱け出してきた方がただ。マダム加藤もそのひとり、超の字のつく才媛でまだ東大に女子学生は少なく、フランス政府給費奨学生に選ばれるのは、さらに大変なことだっただろう。

とにかく父と対等に話をしたいという想いが原動力でした。と笑う彼女は、同期の奨学生8人のうち、学業を終えた後もフランスに残ったのは私ひとりでした、なにしろ加藤と出会ってしまったものですから。それまで私のまわりにいた方たちとはスケールが違いました。画集の年譜ページに掲げられた画伯の写真を示しながら言った。

語学堪能な彼女は、通訳を頼まれた政府系団体、大企業、研究機関と日本から訪れるさまざまな分野のエリートたちを目にしてきたわけだが、彼女の心を摑むだけのスケールは彼らにはなかったようだ。なるほどモノクロ写真の中で微笑む画伯には華があった。

もてましたよ、加藤は。結婚を決めるときにも二股をかけていましたもの、わたしとピアニストの女性。それが、このピアニストとわたし親しくなりましてね、コンサートに呼ばれるうちにすっかりファンになって、いまだにわたしの最大の趣味はピアノ演奏会に出掛けることです。

結婚後もいろいろありましたよ、でもね気づかないフリをしていてあげました。結局わたしのところに戻ってくるわけですから。いくら遅くなっても外泊はしませんでしたしね。

あっぱれ。

緑茶を啜りながらおっとり語るマダム、そんなマダムを包むように風と対話した画伯の絵が見下ろしている。

季節の移ろいと共に花が咲き、小鳥は囀り、柔らかな青葉は濃い緑の葉陰を作るかと思う間もなく紅葉し、散っていく。

大きな窓の外の光景は、狩野派の襖絵のように、時とその循環を映し出す。

永六輔につづいてマダムも逝った。

しかし、記憶のうちで人びとは常に新しい。

風の余韻をとどめようとした画伯の絵に囲まれながら。

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