重曹うがい

還暦を迎え退職を契機に東京を離れ、しばらく海外暮らしをと思い立ったはいいけれど、それはそれで大小さまざま、いろいろ気になることが湧いて出てくる。

そのひとつに歯医者さんの問題があった。

一年に一回は歯医者さんに駆け込む。虫歯の治療箇所の詰め物が取れたり、新たな要治療箇所が生まれ出てきたり、激しい違和感ひどい痛みに耐えきれず、またまたお手柔らかにと治療をお願いする。それが平均的ペースだった。

この虫歯の痛みというヤツ、我慢を重ねればどうにかなる自然におさまるといったシロモノではない。しぶとく情け容赦なく無慈悲に、休みなくゆるぎなく居座りつづける。

東京でさえ、相性のいい歯医者さんと巡り合うのは至難のワザだ。長年の行きつけだった歯科医が引退した後、いろいろ人のうわさを頼りに転々、家から歩いていける距離に、これはと言える腕の持ち主を発見したときには望外の幸福だと感じた。

それをどう見たって西洋人よりこぢんまりまとまっている、われわれ東洋人の口腔を覗き、器用に虫歯を直してくれるようなフランス人歯医者に出会えるだろうか。ヴェトナム系フランス人に狙いを定めれば、なんとかなるだろうか‥‥。

ともかく出発前に歯のチェックを徹底的にしてもらうと、もうじき40歳になるという歯科医は言った。‥‥いま持てる力をすべて出し切ったと言えます。おおしまさんの歯は、ぼくの全盛期の作品です。体力と知力と集中力の結晶、それは40歳がひとつのピークになるだろうと自覚していますから。

だから‥‥これからもぜひ定期的に拝見したい‥‥と言われても、毎年パリに診に来てくれとは、まさか頼めない。せめて予防法を伝授していただきたい、と申し出ると、ブラッシングの方法からケアの仕方まで懇切丁寧な講義。彼の「作品」の扱いを、持ち主でありかつ管理人である者に託する熱意がこもっている。

しかし、そこまでの手入れはどう考えても無理、とてもつづけられそうにない。天性のものぐさであること否定はせぬが、なにも歯の手入れをするために朝起きるわけではないし、食事をするわけではない、海外暮らしをしようというわけでもない。熱心なプロフェッショナルはしばしば逆転しがちだが、ここのところは非常に大切な点だ。

もう少し、手軽な方法は‥‥毎日磨かなくても済むような。重ねて問うと、重曹でうがいするのはいいと言いますね、研究データを目にしたことがないのでどの程度効果あるのかまでは分かりませんが、まあ害にはならないでしょう、と肩をすくめた。

‥‥まがりなりにもパリのアパルトマンに落ち着いてしばらく、ふと思い起こすと辞書を片手にスーパーマーケットにおもむき、重曹を求めた。料理に、洗剤がわりに、脱臭防腐を兼ねて冷蔵庫に、と用途は広いらしく、食塩と同じ棚に鎮座している。

実際少し苦みのある食塩水。そんな感じで、これなら気軽。起床時、洗面時、帰宅時、就寝前、いつでも気づいたときに水に重曹を入れて適宜うがいをする。忘れたら忘れたで仕方ない、そんな軽い気持ちで。

うん、これはいいかなと感じたのは、口中の粘るようなことがなくなり、歯茎が引き締まったように思えたから。林檎を皮ごとかぶりつく食感を楽しむ気にもなれたからだ。

虫歯を引き起こす菌はじめ口の中で悪さをするのは、おおむね弱酸性なのだそうだ。就寝中は体温が下がって免疫力が落ちるから、黴菌どもは喜んで繁殖する。そこに弱アルカリの重曹を流し入れると口腔は一気に中和され、弱酸性の菌は退散ということになる。

情報を総合すると、どうもそういうことらしい。やたらCとかHとか記号の入り組んだ亀の子模様の化学は理解力を超えるけれど、小学校の理科に登場した酸性アルカリ性中和の話なら納得がいく。

子どもの頃、ハイキングの靴から入り込んだアリに足先を食われたときには小便をひっかけろ、と叔父から言われたし、蚊に刺された腕には祖母が灰のとぎ汁を塗りつけてくれた。あのときの魔法のような効果、ここで働いているのはその単純明快な原理らしい。

‥‥こうして、いつの間にか5年の歳月が流れた。今のところ虫歯の痛みもないし、歯周炎の自覚もない。歯医者さんと無縁な5年の歳月というのは、個人史にとって画期的だ。

この記録がどこまで伸びるか、今晩寝床であの久しく忘れていた奥歯の疼きがよみがえるのか、それは分からぬけれど、少なくとも重曹うがいは効果があったのでないかと思う。

今や治療の指先にふるえなど生じ、技量的衰えを感じはじめているかもしれない、かつての主治医に彼の「作品」の現在を見せてやりたい気もする。何事もなく5年を経過した「作品」と、どんな思いで対面するのか。想像もつかないだけに、いっそう興味は募る。

しかし、残念ながら、大口開けて自分の口の中を写真に撮るほど酔狂ではない。まして、その写真をサイトで公開しようとなどというほどの露出狂でも変質者でもない。

あしからず、と申し上げるしかない。おかげさまで、と感謝のことばを添えて。

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